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第38回部落解放研究京都市集会

  4分科会

わたし自身と差別問題

〜自由な対話が成り立つ人々との交流の場を求めて〜

                     京都会館第1会議室  

 

2007年2月17日(土)午後1時30分〜4時30分

京都会館  第1会議室(41名参加)

 

                    話題提供        松田國広(京都市職員部落問題研究会)

進行・庶務   廣瀬光太郎(京都市交通局部落問題研究会)

パネラー    これまで「わたし自身と差別問題」に関わられた方

記  録     町野 覚(京都府庁部落問題研究会)

担  当     村上光幸(部落解放同盟京都市協議会)

            石田房一(京都市交通局部落問題研究会)

                                                        松田誠二(京都市交通局部落問題研究会)

 

<分科会責任者として>                    村上光幸

 第4分科会では、例年、差別問題に関心を持った人、行政関係者で同和問題に関わってきた人、教育現場の人、PTA関係の人たちが参加をして、「自由な対話が成り立つ人々の交流の場を求めて」それぞれ自分の思いを語り、相手の話を聞く場を作ってきた。しかし、現代社会において部落問題をはじめ、人権問題は社会の進歩、科学技術の進歩とともに益々高度で複雑で重大な問題となってきている。変革の時代だといわれる今日、内外の人権を取り巻く情勢も急速に変化し、変化に対応できなければ人権確立の取り組みが大きく後退していく状況にあり、とりわけ教育現場では、部落の子どもたちや在日外国人の子どもたちが、京都市職員の不祥事問題や選考採用、北朝鮮核実験問題など、マスコミによる過剰なほどの放送によって、子どもたちの心に大きな傷や影響を与えている。そのことも点検しながら、部落問題や同和行政、同和教育を普遍化させながら発展させたいと考えている。そして、この分科会での成果や経過を踏まえながら、身の回りにあるいろいろな差別をとおして、人権をキーワードにした共生社会のあり方を考え、変化に対応した柔軟な思考や問題を提起し、議論ができる分科会にしていきたい。

 

<分科会を進めるにあたって>             松田國広

 昨年からテレビ・新聞をはじめマスメディアは、京都市職員の不祥事を連日報道してきた。それぞれの事件については、公務員である職員が社会的常識を逸脱した行為であり、絶対許すことのできない問題である。この間の公務員バッシングとは異質のこれらの事件は、京都市民や社会の目線で見みると、異質を超え表現のできないあり様である。

このあり様の不信感をいっそう強めたのは、テレビカメラの前でコメントした市長発言である。発言を編集されたことを差し引いても、京都市職員の最高責任者である市長の発言は、内外に波紋を広げたのはいうまでもない。日頃、市長に対して反目している団体は、ここぞとばかりに批判を繰り返している。

「職員の採用に際して『優先雇用』が事件の背景にある」という市長発言を聞いたときに私は耳を疑った。「ごく一部の人たちの行為」と前置きした発言であったけど、テレビを観ている視聴者である京都市民は、発言の真意とは別のことを考えたのではないだろうか。同和対策雇用促進事業(選考採用)の一環で採用された「ごく一部の人たちでない職員」やその家族は、どういう思いでこの発言を受け止めたのだろうか。市長発言の波紋は学校現場(同和校)や地域(同和地区といわれている地区やその周辺)で、子供たちや家族はほんとうに辛い思いをしていることだろう。この問題の対応に対して京都市行政が問われるのは、一体何なのか。特に戦前・戦後の京都市における近・現代の部落史を検証してみよう。そして市民への説明責任を果たさなければならない。また、同時に職員に対しても同様に説明すべきである。これまで同和行政に何らかの関わりを持ってきた職員にも説明がなく、紙切れ一枚の回覧・通達で済ませようとしている。労働組合や職員団体に対しても、事前に何の説明が無いのも奇異である。

 私も行政の一員であり、市長発言を聞いて感じたことがあった。それは、これまでこだわり続けていた2002年3月末に地対財特法の法切れ後の部落問題のあり様である。私たちは、同和対策審議会答申(同対審答申)を御旗にして、部落問題解決に向けて同和行政推進者の一翼として携わってきたのである。一連の事象に対する市長発言やマスメディア、また、市民何がしの団体を含めて「部落問題」や「差別問題」について、何にも語られないように感じる。

特に行政の法期限後の対応は、「法の切れ目は縁の切れ目」を実践しており、運動団体に対する接し方は、「お見事!」と絶賛されるものである。京都市の同和行政は、戦前の融和事業を含めた歴史的な関わりを終焉させようとしている。私たちが幼年期、成長期に学校で学んできた同和問題は何だったのでしょう。職場での同和研修や啓発は何だったのでしょうか。全国の先頭になって同和行政や同和教育を推進してきた京都市は何をしてきたのでしょう。京都市行政は「日本に京都があってよかった」じゃなく、「京都に同和行政がなくなってよかった」とでも言いたいような素振りである。

 一方、運動団体の対応は、機関紙や公の場で釈明を繰り返している。正直、市民感覚からすると説得力に欠けている。運動の矛先や対峙を行政依存し過ぎの自己診断ができ得なかったのではないか。一連のお詫びや釈明に対しても、ジャーナリストやメディアもその点を追及し続けている。「同対審答申」が出される過程で、部落問題を国民的課題として側面から推し進めてくれたマスメディアのあり様も様変わりしている。「支部活動停止(3ヶ月)」についても、その実効性の無さを指摘し運動団体の対応を批判し、市民からの共感を得る動きもある。いずれにしても、「部落問題」を「差別問題」として捉えて、オープンに議論することが求められる。過去に行ってきた事の一つひとつを検証して明らかにすることが必要になるでしょう。しかし、オープンな議論といってもなかなか批判しづらいことが予想できる。でも、いまこの時期に「部落問題」を語らなければ、これまで関わりをもってきた人たちとの関係も無になります。人と人の関係を大事にしてきた分科会であるからこそ、勇気を持って語りましょう。

 以上、分科会の進め方の概要を説明して、再度5点にわたって話題提起を行った。

松田國広

1、         運動団体(解放同盟)が問われているは、一体何なのか?

・これまで運動に対する意見・批判を聞く組織だったのか

・運動の対立構造を行政(闘争)中心にしてきた結果は

・総括・検証をどのようにしてきたのか(過去の問題点と処理の対処)

・反差別を御旗に運動を進めていく組織のあり方は

・行政闘争からの脱皮をしていくには

・若い人たちをどのように地域で活動させていくのか

・意見・批判を聞く組織へ

★2002年3月は部落問題(運動)の分岐点(終焉)と捉えたのか

2、         行政(京都市)が問われているのは、一体何なのか?

 ・京都市の同和行政は何をしてきたのか

 ・首長の声は、京都市行政職員の全ての声なのか

 ・部落問題を本当に職場で議論(研修)してきたのか

 ・職員でさえ部落問題を毛嫌いする雰囲気は何なのか

 ・部落問題を語ることの出来る幹部の不在

 ・仕事としての同和行政(事業)の終焉

・市民啓発としての部落問題の終焉

 ★2002年3月は同和行政の終焉としたのか

3、         市民不在の「運動と行政」のあり様は

 ・情報公開が問題の解決の糸口になるのか

 ・タブーとスキャンダルが交錯しているあり様について

 ・原則として「差別」はいけない。でも、「運動と行政」の関係に対しては嫌悪

 ・不祥事と部落問題の関係について

 ・市民(京都市民)の差別感について

 ★2002年3月は同和問題の分岐点(終焉)と理解していたのか

4、         今後のあり方が見えてこない。どうすればよいのか?

・総括・検証をどのようにするのか 

・差別問題(部落問題)を語るのはタブーになるのではないか

・本当にどうしていくのかわからない

★2002年3月は部落問題の終焉、それとも新たな課題となったのか

5、 部落問題って、一体何なの?

<分科会での討論>

●廣瀬(進行)

 京都市職員の不祥事が多発している。部落問題と自分との関わりを議論するときには、この問題を避けて通ることはできない。

●松田(話題提供者)

 まず最初に、この間の不祥事に対して運動体(解放同盟)がお詫びと反省をすることからはじめなければならない。特に数年前に市協(部落解放同盟京都市協議会)および支部の不正な活動に対して、京都市民の運動に対する見方は冷淡であった。これまで運動体(解放同盟)がまちづくりや啓発活動・支部活動も、この不祥事で一瞬の泡のように吹き飛ぶ様相である。いま運動体(解放同盟)は聞くのがとても辛いと思うが、あえて私も嫌なことを言わなければならないと思う。真の友達だからこそ苦言を言う。それが友情というものだ。京都市は職員の不祥事を受けて同和研修のあり方を見直すとして、従来は職員研修として多くの職員を派遣していた本集会に対しても、今年から派遣を取りやめた。従って今日の集会は、部落問題に関心を持つ市民(市職員を含む)による本来の手作り集会になった。不祥事発覚に対して、市長は「同和優先雇用」の問題点が露呈したと片付けようとしている。私ははじめ市の雇用者責任はどうなのかと疑問を持った。部落問題解決のために、部落の不安定就労実態の改善を掲げ、具体的には雇用促進運動として行政闘争を推し進めてきた運動体と行政当局は開かれた場で検証と総括を行うべきである。行政が何も総括もせず、法の切れ目は縁の切れ目では、部落問題解決の行政課題から引いていく姿勢は責任ある態度ではない。そして同和問題を熱く語ってきた職員はどこへ行ってしまったのか。

●男性(市民)

 集会冊子に記されている分科会案内では、職員不祥事について過剰なマスコミ報道が問題だと読めるが、運動のあり方に問題があったとの先ほどの話は真っ当な視点である。運動体が第一に反省の具体的な声をあげる。今日、部落差別は封建的な賎視感によるものは一部の年寄りに残っているだけで、大部分は「同和利権」に対する反感だと思う。不祥事を起こした者は罰を受け。弁償して当然である。

●男性(民間労働者)

 悪いことを人が罰を受けるのは当たり前だが、運動体が弁償するというのはどうか。

かつて国鉄分割民営化の中で、国労、労働組合つぶしが行われたことを思いだす。

●男性(行政職員・労働組合)

 飛鳥会や奈良市職員などの運動体の役員が起こした事件について、何故そのような役員を生み出したか、長年にわたる不祥事を許してきたのか運動団体として責任を明確にする必要がある。

●男性(行政職員・労働組合)

 市のある部局で一度懲戒免職になった人が、再度、別の部局に採用されるとはどういうシステムなのか。

●男性(行政職員)

 不祥事を起こした職員の全てが部落出身者でないが、マスコミも一緒くたに報道している。職員研修が同和問題から人権一般へと薄められ、参加対象者も一部の人に限定され、職員全員に対する研修がなくなっている。

●男性(運動体)

 私たちの支部は京都市内では結成の若い支部であり、まじめに運動に取組んできた。大きな不祥事を出すこともなかった。しかし、運動体全体としては、問題を起こす体質を改善できずにきた結果ではないだろうか。

●男性(行政職員)

 部落は高齢化で独居老人が多い。解放運動が同和施策として教科書無償化を一般施策に拡大したように、介護問題で先進的な取り組みを行い。それを一般化できればよいと思う。

●村上(分科会責任者)

 一連の不祥事については、皆さんにご心配とご迷惑をかけている。本来、解放運動とは社会正義のための運動である。自らが立ち上がる運動を前進させ、新たな社会的連帯を築き、社会的信頼を回復するためにもしっかり部落解放運動をがんばっていく。私の住んでいる部落でも中堅層が流出し人口が減少して、高齢者と不安定就労の若年者が多くなっている。地区外に出た層も交流や気楽に来れるような環境を整備していきたいと思っている。そのためにも、まちづくり委員会の取り組みに積極的に参画していく。

●男性(行政職員)

 高齢化とニート問題について、部落と一般地区に差があるだろうか。差がなければ解放運動の課題となり得ないのではないか。

●男性(行政職員)

 部落の高齢者が差別実態の中で身に着けた生活習慣は一般地区と様相が違う。

●町野(府部落研・分科会実行委員)

 解放運動は究極的には差別を撤廃することであるが、さし当たっては部落の生活を守る運動であり、高齢化や独居老人の問題は解放運動の今の課題と思う。

●男性(民間労働者)

 義務教育教科書無償化のように、高齢化問題についての解放運動の成果を一般化しなければいけない。

●男性(市民)

 いまだに運動を擁護する意見に違和感を持ちます。今日の不祥事問題と解放運動に対する風当たりの強さは、運動の存亡に関わる事態であること。運動の本流を歩いていた人の中から不祥事を生んでいることに猛省しなくてはいけない。一方、運動の中の若い人たちの意見は、力強く受け止められ有意義であった。

 以上、他にも多くの意見が出されましたが、主な意見を集約。

<アンケートから>

 問いの中身は、@何故、この分科会に参加しましたか。A発言に興味を持った感想は。

B自由な意見をお願いします。

★テーマとしてざっくばらんに語り合える。研修として同和問題をどう取り上げていくのか考えたいところがあります。

★解放運動全体について、色々なことが議論できるから。不祥事を機に反省して運動側が

がんばっている。

★発言が活発でリアリティーのある議論が聞けるから。不祥事問題の捉え方・問題点が今後の取り組みの参考になった。参加者が分科会を盛上げ、ささいな事だけど椅子やマイクなどを手伝いすることは本当によかった。分科会をつぶしたらアカン。

★初めての分科会で、違うテーマの話を聞きたかった。改良住宅の入居率、30代・40代の方の転居に伴い空室が一時目立ったが、最近は、その空室が減ってきていると聞いています。地区を出たけれども帰っている話もあるみたいですね。6年前までA地区におりまして、卒業生が結婚して地区を出たけれども、離婚して子どもを連れて帰っている。今はその数が増えてきており、数年後には小中学校にその子が入学する。学校として教師として、これからの教育をしっかりと考えていかなくてはならないと思っております。

★おそらく京都市集会から行政(京都市)が一切手を引いた今集会で、この第4分科会の持つ意味が大変大きくなると思った。事件(飛鳥会〜大阪〜京都〜奈良の一連の不祥事)をチャンスと思って自分たちを見直そうと思うA地区支部の方の意見に興味を持ちました。

 解放運動もスタンダードにならないとアカン。社会正義を勝ち取る闘いだった。この分科会は確かに自由な対話が成り立つ素敵な分科会であると思いました。私は同和関係校(小学校)で本集会にも関わってきて、特に6年生の社会科の授業(歴史)の中で、部落の歴史についても教えるためかなり詳しく研究もしてきたつもりがあるので、部落問題解決に向けた思い入れがあるつもりです。が、それでも運動体の方の発言は違和感を覚えました。例えば、松田さんの不祥事問題を「行政が悪かったところと同盟にも悪いところが…」という発言が何度もあった。「同盟が反省するところがあり、行政にはなかったか」大事なところだろう。いわゆる市民感覚としては当然後者だろう。ここが運動体の分かりそうで分からない大事なところだ。最後の方の発言が全て!

★いろいろ考え、生の声を聞き勉強したかった。運動の特化と一般化の話に興味を持った。来年も続けてください。

★やはり報道されていることと反差別運動がどのように関連していくのかを考えてみたい。普段なかなか聞けない意見に興味を持ちました。京都市集会の年々の変化を危惧するとともに期待もしています。小学校に勤めていますが、年々変化と解放運動をどのように(分断された)結びつければいいかと思います。市民として真の要求、イコール個人的欲を元にした教育行政の進め方を心配しております。発言を聞いてふと思いました。映画の「ゴッドファーザー」や「仁義なき戦い」を思い浮かべました。マフィアやヤクザのような悪党(ピカレスク)がどのように成立していったのかというと、ほとんどは社会的弱者(被差別者)ではなかったか。自分たちの社会的立場を向上させていくために、暴力という手段を選ばざるを得なかった。その暴力の相手は誰であったか。彼らは社会的権益を確保していくために不法行為を繰り返していく。そして、確保した利権をまた暴力的・不法的・反社会的に守っていく。議論されている不祥事との共通点があるのではないか。では、マフィアやヤクザは必要なのか。マフィアやヤクザの成立条件というのはもっと大きな社会的構造の中から生まれたものではないか。マフィアやヤクザを利用している体制があるのではないか。不祥事を起こした団体だけが突出したものなのか、それに絡んだ今は水面下に隠れている者がいるのではないか。映画では社会的暴力について考えさせられました。そもそも政治は社会的暴力をどのように調整していくものではないでしょうか。

★広い範囲の話題に対応していると思う。犯罪をした人が、再度推薦を受けて雇用されている。そして、また再犯。これはどういうことかという問いかけに対して明確に答える人がいなかったこと。参加者は、ここには自分と全く違ういろんな立場の人が参加しているという前提を意識して話していきたいと思う。一人の人が長々と離し過ぎのきらいがある。発言する時は、自分の立場を明らかにして話したい。一体、この人は誰?という場面があった。知っている人同士で内輪の会話みたいにしてほしくない。

★部落解放研究京都市集会の総括に必要な分科会と思う。

★分科会が少なくなり、参加していた分科会がこの分科会しかなったから参加した。一連の事件と運動団体と行政の問題点に興味があった。

★部落差別という問題を客観的に考え、別の世界の問題として第三者的にみるのでなく、自分事として捉える分科会だと思った。部落解放とはどうなったら解放されたということになるのかと考えてしまいました。

★解放同盟の中にも様々な社会事象を客観的に受け止め、がんばって活動されている方がたくさんおられることがわかりました。

★自由な意見が出ること。自ら点検、自分自身で出来ることをやることに興味を持った。

★職場研修において参考としたい。

★以前、参加して印象に残る分科会であったので参加した。運動体論は難しいです。以前は様々な立場の人たちが、より自由に開かれた討議をしていたように思うのですが…。

★他の分科会と異なり、自由に発言ができ発言の中から学ぶことが多い。今までとは異なり重いテーマであったが、それぞれの立場から活発な意見が出てよかった。また、自分自身についても考えることができた。次回は研究集会も変わるようですが、このような分科会があれば参加したいと思っています。

★少人数で本音の議論が交わされた。まじめに運動に取組んでいる人は、仕事も一生懸命やっている。今の多くの市民にとって「同和」のイメージは「利権」のイメージである。個々の意見は大変面白く参考になる。テーマが少しずつ動いていって議論が拡散している感じがする。

★部落問題について広い視野から自由な意見が聞けた。部落解放運動が転換期を迎えていることが、多くの方の意見から確認できた。人権問題は本来、人間自身が全て考えていかなければならない問題です。同和問題についても当然そのはずであるか、実際には行政と運動体の関係だけになっているではないか。京都市の不祥事問題も個々から発せしているように思われる。今からでも部落解放運動が他の人権問題と連携し、幅広い運動に発展するように願います。

★今一番議論されねばならないテーマ。同和問題を特化するのはだめだけれども、この問題についてこだわっていきたいという思いを新たにしました。

★本音が聞ける。運動体、行政のどちらが悪いのかという印象にとれました(政治介入を除外すべき)。まず自分はどうか、どう考えるのかを根本にしないと解決しないと考えます。

人権問題は人の心の問題。行動と反省の繰り返しと考えます。

★来てとてもよかったです。ありがとうございます。

 

<分科会を終えた感想>

 今回は、京都市の不祥事問題を最大のテーマにして、運動体と行政のあり様について議論を進めた。いま、このことを語らずして京都市集会の意義はないと感じ、少々危機感を持って臨んだ。集会の表題が「部落解放研究」であり形式的な発表もいいが、「部落のいま」について語ることが、大げさに言うと第4分科会の使命だと思っている。運営の意図として、運動体・行政の双方に対して批判・問題点が出ることは想像していたし、40数名の参加者があったことも満足できる数字であった。この分科会は、まとめや方向性を見出さない、散漫な議論になる場だと批判される。一方的に好き放題の意見が出過ぎるから、運動体の方から助言者を立てるべきだと忠告されたこともある。この分科会に関わったときから、果たして助言者が必要なのかと疑問を感じ、サブタイトルの「自由な対話が成り立つ人々との交流の場を求めて」を第一に考え運営をしてきた。そのことはアンケートや意見の中から垣間見られる。だから、参加者の様々な思いや考えが多く出るのも特徴である。

 運動体と行政に対して批判・問題点・課題が出され、様々な意見を誰がどのように聞き入れるのか、聞くことをするのか、また、そのことを受け入れる体制が双方にあるのかが最大の問題である。正直、検証と総括を具体的な形にするのは容易ではないと思う。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざがあるが、分科会参加者は、運動体と行政双方が話を聞いてくれることを前提に自分の意見を述べたと思う。残念ながら、一方の京都市行政の同和問題に関係する方々が誰一人来られていなかった。私たちの思いと期待は悲観的な予感もする。でも、悲観せずに一部の望みを持ってこの分科会が続けられたのは、人と人の関係と「わたし自身」を大事にしてきたからだと思う。さて、次回にこの分科会があるのかと悲観的な思いを持たないように願うばかりである。

                           報告者(文責):松田國広

       

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