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第54回人権交流京都市研究集会

  3分科会

フィールドワーク

  〜「京あまべの歴史」に学ぶ〜

                            会場 京都市 東三条地区  

           

 

司会進行:北村 要(部落解放同盟京都府連合会東三条支部)

 

記 録 :筒井 絋平(部落解放同盟京都府連合会東三条支部)

 

会 場 :西條 裕二(部落解放同盟京都府連合会東三条支部)

 

  

 

 

●全体学習 安田 茂樹さん(解放同盟)

  ●フィールドワーク案内 (解放同盟東三条支部 他)

 

はじめに(全体学習から)

  本日の分科会では東三条地域の歴史から部落史についてみなさんと一緒に考えていきたいと思います。まず、東三条の被差別部落ははじめからこの場所にあったわけではありません。もともとは四条河原町の高島屋の南の方にあったようです。その場所に「あまべ」の人々が住む前には「崇親院」とよばれ主に藤原一族で戦争により亡くなった武将の妻や子どもたちが自給自足の暮らしをしていたようです。この歴史についてしっかり調査できていないため今後別の機会に報告します。

さて、本日は1568年織田信長が京の都へ攻め寄せてきたとところから話をはじめます。このとき信長は、「四条あまべ」に対して「禁制」をだします。禁制とは信長の軍隊が「あまべ」に対して乱暴や窃盗などしないように保障するというものです。これは相手の存在に利用価値があると認めた場合に発行される約束手形のようなものです。これに対して「あまべ」の人たちも金品を収めて庇護を願ったと考えられます。また、戦国時代にあっては武具甲冑をつくるのに皮を使っていたため武具の材料となる皮を製造販売していたことも利用価値があったものと考えられます。つまりこの「あまべ」は町としての自治機能が存在し交渉能力をもち金品を引き渡すほどの資材を持っていたということが考えられることから信長の庇護をうけることができたわけです。

その後、本能寺の変で亡くなった信長のあと羽柴秀吉が禁制と同じ意味の朱印状を「あまべ」に発行し「あまべ」を安堵していますが、秀吉のお土居政策により京の町が整備されていく過程で現在の東三条の地に移転させられます。移転の理由に信長親子の弔うために寺を建立するためとしていますが、本当のところは触れ頭としての役割を担っていた「あまべ」がすぐ近くにあった金蓮寺の熱烈な信者であったことを嫌ったとする理由や三条橋は東海道五十三次の査収地点であり京の都への入口でもあるのです。不審な人物を監視することを目的に移転させられたのではないかという理由などがあったのではないかと言われています。

江戸時代を過ぎ幕末から明治にかけて差別されてはいたものの裕福な暮らしぶりで町内に蔵が9戸もあったそうです。しかし、江戸時代には独占的に認められていた職業などの措置がなくなり明治10年ごろには「あまべ」の住民は貧しい暮らしに追いやられていきました。明治初期に学区制が敷かれましたが教育の重要性を理解していない住民は「勉強は医者と寺の坊さんがやることで自分たちとは関係ない」と考えていました。そこへ、当時巽町の戸長をされていた竹中庄右衛門さんが私財を投じて昼間学校へ行けない子どもたちに夜に字の読み書きを教えはじめました。しかし、親たちは貧しいくらしを「子どもたちが働くことで家計を支えてくれている。字を習っても稼ぎにならない。」と竹中さんの善意を理解できないことで子どもたちが学ぶことはできなかったのです。

竹中庄右衛門さんは、家業の面や籠手など剣道で使う防具など製造販売されていましたが若くして戸長になり家業は子どもに託し自分は住民のために活動されていました。その一つに「これからの時代教育が大切だ」ということを考え子どもたちに勉強できるために字の読み書きから教えていたのでした。しかし、子どもたちから費用を得られないため財政的な理由から夜学校をはじめては中止することを繰り返すこと3度ありましたが1903(明治36)年、私立協働夜学校として認可され学校として運営されるようになりました。

その後、この地域の自治活動は竹中庄右衛門さんを中心に進められることになりました。まずはじめは一心青年会が結成されその会長に竹中庄右衛門さんが選出されました。活動としては風紀を正し衛生面や仕事にでかけるなど自分たちの暮らしを見直すことに取り組みました。やがて1918(大正7)に米騒動が起こりました。京都市内の多くの被差別地域からこの米騒動に参加しましたが東三条から米騒動に参加していません。その理由は、多くの住民は貧しい暮らしをしていましが裕福な住民もおられました。その人たちから寄付を集め人々が元の米の値段で米が買えるようにしたことや一心青年会の会員が3昼夜交代で住民が塀を乗り超えて米騒動に参加しないよう見張っていたことで米騒動に参加しなかったわけです。

このことが原因で東三条の住民は他の被差別地域から揶揄されることになるのですが、全国初の公設託児所が米騒動の翌年1919(大正8)年開設されることになりました。この米騒動では多くの住民が参加したにもかかわらずより厳しく処罰を受けたのは部落民だったことを忘れてはならない。(米騒動による全国の検事処分者8185人中、部落出身者はその一割を超える887人に達し、全国の処分者中死刑判決を受けた2人はいずれも和歌山県の部落民であった。部落問題辞典より)全体学習としてはここまでの内容です。このあと20人ずつに分かれて東三条の町内を歩き視察をしました。

 

フィールドワーク@(大将軍神社)

ここは延暦遷都(えんりゃくせんと)の時、天皇が長岡京から京都に移ってきた時、王城鎮護(おうじょうちんご)のため京都の朝廷のお城を守るために京都の四隅に大将軍を鎮座させます。その大将軍神社は、四つあるのですがここが巽(たつみ)の方角にあたるといわれています。正確なことはわかりませんが、応仁の乱で火災にあった地域を江戸時代から調べるようになったころから大将軍神社と呼ばれるようになったのではないかと考えられています。

神社本殿には「スサノウノミコト」が祀られていて、相殿(あいどの)として、もともと関白藤原兼家(ふじわらかねいえ)の邸宅があったことから「東三条社」に藤原兼家が祀られています。相殿とは同じ社殿に,二柱以上の神をお祀りしていることのようです。

さて、この神社には東と西に立派な鳥居が同じころに作られ東の方は大正13年1月に西の鳥居は大正135月で奉納したのは東の鳥居には「京都宮川町」「京都祇園」どちらにも篠原さんという名字が書かれています。西の方は若林さんという名前が書かれています。篠原さんの方は宮川町や祇園ですのでお茶屋や遊郭などで儲けてお金をもっていたと思います。また、若林さんは、食肉を扱う商売をされていたようで裕福な暮らしをされていたと聞いています。そのためこのような立派な鳥居が奉納できたと思います。ちなみに、このフィールドワークの最後に円光寺を回っていただきますが、その円光寺には裏千家11世宗室の玄々斎さんが監修した茶室があります。

掘割とレンガの壁あと

 フィールドワーク前半にお話をさせていただきましたが、この町内は秀吉の命により現在の四条河原町からこの場所へ移転させられてきました。そのころはこの村の周りに掘割があり塀で囲われていたようです。現在掘割は埋められてなくなりましたがその跡が1963年に建設された市営住宅3棟の東側に行けば見ていただけると思います。本殿北側にそのレンガ塀の跡はのこされています。

私立協働夜学校跡地

 竹中庄右衛門さんが始めた夜学校は明治30年に開校され第2次世界大戦が終わるころなくなってしまうのですがその夜学校がこの大将軍神社の中にあったと聞いております。昼間は、託児所として夜は子どもたちの勉強の場所として使われていたようです。竹中さんの先祖は松浦肥前守(まつうらひぜんのかみ)の家臣で関ヶ原の合戦に敗れた西軍の子孫だったと言われています。なぜ、竹中さんがこの町に暮らしておられたのかと言えば、雅楽などの太鼓を製造販売されておられます松浦儀兵衛さんという方がこの町内におられます。その方の先祖が関ヶ原の合戦に兄弟で東軍と西軍に別れて闘い西軍について松浦さんについてこの町内に住むようになったそうです。その松浦さんの家来に竹中さんの先祖がおられていっしょについてこられこの町に暮らすようになったようです。

 

フィールドワークA(立体駐車場前)

この場所は現在立体駐車場になっていますが、ここに以前は三条保育所(託児所)がありました。そうです、あの米騒動に参加しなかったことで全国初の公設託児所が開設された場所なのです。なぜ立体駐車場になっているのかを説明いたします。2つの理由があります。まず1つ目は1977年にこの町内で火災が発生しました。48世帯124人が焼きだされました650uでした。同じ時刻に下京区でも火災が起こりました920uで9戸でした。この違いからみて被差別部落には多くのひとが密集して住んでいたのかがわかるできごとです。消火をしようとしたのですが消防車が路上駐車のため現場まで近づけないことや消火栓のうえに車が駐車しているため消火活動がとても遅れ火を消すことができなった事件がありました。2つ目の理由は東三条地域の路上駐車の車両5台に180字に及ぶ差別落書きが行われたことです。事件の概要は1992424日の早朝530分頃若松通の花見小路の交差点東に入った路上駐車5台にマジックペンで落書きがされ北側に設置されていたA型バリカーが壊され,1台の車の天井に載せてあり,さらに1台の車にはタイヤを2本切り裂かれるという暴力的な差別事件が起こりました。差別落書きの原文は1台目「ベンツはヤクザの乗るくるま とにしない」「死ね山口組でもよい」「われは日木ににらない人」2台目「いい車だねだけどガレシに入れ」「日本は平和をまえが日木を」「をまえはどこに車を止めているのか同和はゆるさない」3台目「世界は平和 市ももっとがんばってください」4台目「をまえの道じゃない 日本人としてはずかしい はかっているのか」「死ねど バカ」5台目「車は がれいじに入れ よの中が平和になります 吉岡工美」誰が何の目的で起こしたのか犯人が特定されませんでしたからわかりません。が憤りを感じずにはいられません。路上駐車は部落にかぎったことではなくどこにでも起こっていることです。わざわざ部落にきて落書きをするのはやはり何かの意図があるものと考えられますが関係機関と協議を進めていき確認できたことは,総合計画に元ずく同和対策事業の結果に対して差別落書きがおこなわれたということです。

フィールドワークB(3棟エレベーター横

@  町内に入る門があった

1587年・天正15に四条河原町からこの三条大橋東に移転させられてきたとき,この村には四方を塀に囲まれてこの村の出入口は一つだったそうです。その場所がここだったようです。ここに門があり米騒動に参加させないように人々の出入りを監視していた場所です。米騒動の時にもまだ出入口が一か所だったわけですから300年間そのままだった言えます。門自体は昭和初期に生まれた人の話では子どもの頃まだ門は存在していたようです。ちなみにこの道の南から歩いてこられて三条通りで京の都へ入る人の監視がされていたようです。

A  三条の周りの溝あと

そして,確認しずらいのですが約1メートルほどの溝があって,この村のぐるりに堀があり塀と堀に囲まれていたそうですが,ここから覗いてみてください。当時の堀はこの幅だったようです。

B  市営住宅3棟が建設されたころのようす

京都市は1950年代にこの被差別地域に改良住宅を建設して住宅環境を整備していこうとするわけですが1952(昭和27)年に「自分たちは物貰いじゃないから」と言って当時の三条自治会が市営住宅建設に反対しています。少しでも住環境を整えるために京都市は1960(昭和35)年にやはり同じように住環境が遅れていた地域。花見小路を挟んで若竹町にあった児童公園に改良住宅1棟建設し続けて1961(昭和36)年に同じく若竹町に改良住宅2棟建設を建設し東側の住人であった教業町の一部の人々を入居させました。そして教業町の空いた土地に1962(昭和37)年に教業町北部の土地に改良住宅第3棟建設されるのですが入居させてもらえません。これは一体どうしたことかと当時すでに設置されていた三条隣保館へも相談にいきました。隣保館は,部落差別の結果周辺との交際が閉ざされていた住民の生活相談や生活指導をしていましたから何か困ったことがあればまず隣保館へいって教えてもらっていましたからこの行動は当然だったわけです。

C  3棟の間取り

参考までに当時建設された住宅のようすは4畳半2間にキッチンにトイレがあるだけの33平米の空間でした。これでも雨漏りはしない。トイレに行くのも部屋の中で食事の準備や後片付けの台所仕事も部屋の中で完結できるわけです。共同トイレに共同水道に雨が降れば傘をさしてトイレに行かなくてはいけない。まして,6畳1間に何人もの人が寝起きする環境からすれば,それはそれは御殿のような暮らしだったわけです。

D  Mさんの土地売買をめぐって

なぜMさんは京都市へ土地を売らないのか,1日も早く目の前に立っている鉄筋のアパートに入居したいと多くの人が思っていたわけですからMさん早く土地を売って自分たちがアパートへ入居できるようにしてほしいと願ったことでしょう。しかし,いつまでたってもアパートに入れないわけですから住民の不満は爆発寸前です。そこで3棟のアパートが建設された翌年の1963(昭和38)年11月17日部落解放同盟京都府連合会東三条支部が支部員5名とその家族や地域住民が参加して結成大会がおこなわれました。当日は,これを妨害するために結成大会の会場であった三条託児所の2階に三条自治会の会員の一部や若者数名が酒盛りをしてなだれ込んで支部結成大会を妨害することをもくろんでいたようですが,大衆の熱気に妨害を躊躇することになりこの行動は不発に終わりました。

E  早急にアパートへ入居したい

その翌日の11月18日できたばかりの支部は京都市と交渉をおこない市の管財局から「土地買収のための土地家屋の土地評価に乗り出しましたが一部まだ評価にも入れないところがあり土地買収はまだ進んでいません。」という回答を得ました。つまり部落の場合土地の売買実績がないため土地の売買価格が決められないということだったわけです。その後12月3日支部と住宅局との交渉で,はじめてこの地域のほとんどの土地を持っていたMさんが京都市の土地買収に応じないため入居できないことが明らかになるわけです。

その後は,京都市の土地買収交渉に応じて私たちが一日も早くアパートに入居できるようにしてほしいとMさんの自宅の周りで火を焚いて要求をしたりMさんへの追及をおこないました。これらの活動などを通じて仕方なくMさんは土地買収に応じることになりますが,私たちは住民の利益を優先する運動を展開したため地主のMさんの権利や利害を守ることに目が向けられなかったことがことは事実であり,権力の分断支配にまんまと乗せられたことは率直に反省しなければならないと思っています。

F  三条地下センターで識字学級や補習学級が行われていた

以前は,この坂をくだったところに3つほど部屋があり夕方は小学生の子どもたちが補習学級として教科の学習をおこない夜は二日ないし三日間は中学生がよる教科学習をおこなっていました。また,その他識字学級がおこなわれたくさんの大人が字を習いに来ていました。

 

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