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第55回人権交流京都市研究集会

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部落と人権

  〜貧困化がすすむ社会の変化と

排除に抗する公立学校の底力〜

 

                    会場 テルサホール 

           

 

基調講演

 

 西田 芳正

(大阪公立大学現代システム科学域 教育福祉学類 教授)

 

  ●パネルディスカッション  中村 裕也(小同研)

                佐藤 高文(中人研)

                西田 芳正(大阪公立大学教授)

       コーディネーター 稲垣 知裕(小同研

 

  

 

     

   分科会責任者:松井 剛史(中人研)

庶務:弓削 雅哉(中人研)

 

講演者は、教育社会学の観点からまた自らの成育歴に沿い、社会には一定の不平等層が存在し、教育をはじめ公共の福祉的側面は「しんどい」層にこそ還元されるべきではないかという視点をもつ。そして実は貧困と格差の拡大再生産という過程に学校という場が関与していることを指摘する。具体的には江戸時代の身分制度の下で、支配される側の民衆が、支配者に抵抗を示すのではなく自分の身分より下を見ることによって現実を受け入れようとした『分裂支配』の影響が、少なからず昭和の時代にもあったことを自らの成育の過程で受け取っていた。日本社会における子どもの貧困という課題性から学校教育を問い直す必要があるという。すなわち、しんどい層の子どもたちこそ充実して教育保障を行うべきではないかと。

子どもの貧困の背景には、保護者の低所得と単親家庭(特に母子家庭)の増加による「貧困の深さ」が進行したことがある。社会における労働条件としても、企業論理として非正規雇用を拡大し、雇用の不安定化が進む中で、フリーターやニートという一定層を是認してきた。彼らの不平不満のはけ口がSNSなどのヘイトスピーチに向けられていることは、下向きの視点が表れているとも考えられる。

新自由主義による自己責任論を表面化・拡大化させたことにより、本来、労働する本人のやる気のなさからくるものではない状況であるにも関わらず、自己責任であるかの如く吹聴される傾向を疑問視しなければならない。近年の市民人権意識調査からも明らかにされることは、「多数の人々の生活上の不満と不安が、ヘイト・バッシングとして、生活保護者層、外国人等へ向けられ、下向きに吐き出される」という傾向が強くなりつつあるということである。

子どもの貧困対策において、家庭や保護者層の貧困軽減については軽視され、子どもに対してのみの学習支援や進路保障に傾倒しすぎていることに課題性はある。現状、被差別の立場にある、あるいはしんどさを抱えた子どもたちに焦点を当てられて実践してきた同和教育の立場への再評価を試みることは有効であろう。現在の公立学校は、学力格差においても二極化が進んでいる。その中で、教育環境、条件等が厳しくとも十分な学力保障を成功させてきた「効果のある学校」「力のある学校」を見出すことができる。 

そこはいわゆる同和教育推進校(同推校)と分類される学校であることが多い。公教育として、国や自治体は、しんどい層を抱える学校にこそ充実した支援、教員配置、予算等の配分を重点的かつ積極的に行うべきであると言える。

学校がある不平等を生みだす装置として機能すると、子どもたちがいかに排除を経験してきたかを明らかにするための調査を行った。貧困を切り口とした場合、「貧困は目立たないとして関心が低いが故に積極的に『見よう』としない仕組み」「貧困状況を見せない努力をする生徒の行動」が重複して貧困が見えないという現象面がある。具体的なインタビューでは、中学校時代に「おそろ」(おそろいの姿を実現できない)ができなかった経済的な貧困を聞き取った。カバンや靴などを流行のものを購入できない、遊園地に誘われても断らざるを得ない、などの現実があったなどである。高校生になって、その現象が軽減される要因は、生徒が自らアルバイトをすることによって自由なお金を得るために他ならない。その保護者らは、日々の生活費にも追われて、パート業の兼務や深夜業でギリギリの生活を余儀なくされた。高等学校の教員たちは、正規採用の職場を目指して背中を押していたが、生徒の中には「アルバイトでいい、もう疲れた。」という姿もあった。中には、積立金が払えなくなり中退する生徒もいた。生徒たちが疎外経験を中学、高校でうけることは、おちこぼれではなく、おちこぼしを学校が行っているという事実を明確にする。(学校からの排除)

高校の包摂の取組として、「知ること」を軸とした行動がある。新入生に関する情報を中学校から細かく収集して、支援が必要な状況を具体化していく、さらに情報守秘を貫き生徒や保護者への公開をせず教育条件や教育環境を「知らない体」で準備し享受していく試みがなされている。

校内に、学校ではない社会福祉関連などの職員や、教員ではない人的配置を行い、多数の社会人、大人との関わりや多様な考え方への接触を可能にする居場所カフェの設置をした学校も存在する。

指導の論理と支援の作法の対立性からの脱却を求める必要がある。それぞれをいかに組合せ、学校機能を変容させていくか、アファーマティブ・アクションは甘やかしではないことへの言及と考察を深化させることが肝要である。

貧困の連鎖を断つことを目的とするだけではなく、現在の貧困状況の軽減への行動を明確にして、いま、貧困の連鎖を断つことよりも、現在の貧困の軽減を具体的に進めることを提言する。

働き方改革の名の下に、部活動の地域移行や家庭訪問の減少、削減を進められている。そのような働きかけや取り組みが無くなってしまえば学校はどうなっていくのか、どうなってしまうのかを思い描くことは不可欠である。むしろこれまでよりも教員の負担が増えるということを想像できているのだろうか。

 

【パネルディスカッションの記録】

・コーディネーター(稲垣さん)より:パネリストの自己紹介と基調講演を聴かれた感想を求める。

 ・パネリスト(中村さん):貧困・差別は、『見よう』としないと見えてこない。子どもや親のちょっと

した変化に気づきを持てるかどうかで、その後の接し方も変化する。西田教授

の高校生へのインタビュー内容を聴き、高校生活での実際はどうなのか知り

たいと考えてきたが、『自己責任』とは決して言えない家庭環境を、私たちはしっかり見ていく必要があると感じた。

 ・パネリスト(佐藤さん):青森県出身で、採用10年目。担任としての経験は、生徒と向き合うだけで精一杯だった。高校進学後の生徒たちの姿を西田教授から伝えられて現状を踏まえて指導にあたりたいと考えている。

 ・コーディネーター(稲垣さん)より:パネリストの方々の実践をご報告してください。

 ・パネリスト(中村さん):家庭訪問で生活の様子を見て、顔を突き合わせて親と話をすることの重要性を痛感してきた。宿題の提出状況を見るにつけても、宿題が出来る環境であるのかどうかを家庭訪問で知った上で指導するか否かで、子どもへのアプローチは変わる。急がば廻れの取組も大切だ。また、一担任の責任に落とし込まずに学年体制や学校全体のチーム体制で取り組むことも重要だ。

 ・パネリスト(佐藤さん):転学してきた中学1年生を担任していた時代の経験として、春の校外学習で気温が高く暑いのに、長袖シャツで参加したことがあった。自分は先頭に立って生徒を引率したが、遅れをとってしまったその生徒は、のちに不登校の傾向が強まった。経済的な貧困から全日制の高等学校進学を目指し指導してきたが、進学後に不調をおこし、退学となった事例もある。いずれも、子どもたちに対する働きかけと観察眼を磨き、そのことに注力しなければいけないと痛感した。一見すると、特別扱いとして誤解されそうな関わり方とも捉えられるが、何故に教員がそのように関わるのかを理解してくれる生徒も増え始めた。

 ・パネリスト(中村さん):現在赴任する小学校は、学年主任以外のほとんどが20代の教員で、同和教育施策時代に大切にされてきた取組や働きかけを教わったが、伝え切れていないのが課題であると考えている。将来展望が持てない貧困家庭へのアプローチは働きかけがしづらい。多様な大人の姿を見せることが難しく、親も現状の生活維持が精一杯で、将来のことを考える余裕を見出せない。限られた時間内で、生徒への働きかけを効率よくおこなうという働き方を行う難しさを感じている。

 ・西田教授から:講演をすると『わかってはいるけれど、実践することは難しい』と感じる人が多い。公立学校でしか支えられない現実がある中で、京都市では家庭訪問が継続されているのはどうしてか?

 ・コーディネーター(稲垣さん)から:管理職でもある自分からは言いづらいことだが、『時間の壁』が大きな問題ではないかと感じている。必要性がある家庭訪問は促してもお願いすることはあるが、働き方改革を促す立場として複雑な心境になることがある。

 ・パネリスト(中村さん):命令ではないけれど、自分の実践を見せて、どんな家庭訪問なら有効で、親や子どもが心を開いてくれるのかを後輩に伝えるようにしている。

 ・パネリスト(中村さん):家庭訪問ではなく、電話連絡でもいいかなぁと感じていた時期はあった。けれども、家庭訪問で得られる信頼の強さは、時間を越える価値があると感じている。

 ・コーディネーター(稲垣さん)から:コロナ禍で一旦、定期の家庭訪問は途絶えた。その後、若手の教員に対して、家庭訪問のアプローチをしづらくなった経緯がある。ここで、フロアの方々からご意見やご提言はないですか?

とマイクを向けられた。

 ・フロアから、責任者の松井さんから:働き方改革を取り入れながら、家庭訪問を実施するに当たって、役割分担として割り振りをすることはできないかと模索している。

 ・フロアから、東原実行委員長から:家庭訪問や個別懇談会を希望制にすると、困難な家庭ほど希望しない現状がある。働き方改革の名のもとで、最重要な子どもと保護者との関わりが「蔑ろ(ないがしろ)」になるのではないかと強く危機感を感じている。

 ・西田教授から:家庭訪問は、プライバシーを理由に拒む人もいるので、無くす方向の自治体もある。だとすれば、家庭状況の把握や引き継ぎの情報は、どのようになされているのか?

 ・パネリスト(中村さん):学年が変わる場面では、校内で前任の担任から新担任に情報を引き継ぐ。新1年生の情報は、保育園や幼稚園が日々の保護者との関わりや情報交換での情報量が多いので、それらの機関から家庭環境を聞き取ることが多い。児童相談所との連携を含めて、情報交換は適宜で実施している。

 ・コーディネーター(稲垣さん)から:京都市では『かけはしプロジェクト』として、保育園・幼稚園の先生方に授業参観を実施し、情報交換の場が設けられている。さらに、西田教授が講演でもお話しされていた「力のある学校」「効果が上がっている学校」とは、具体的にはどのような学校かを教えて頂けませんか?

 ・西田教授から:学力に特化して成果を上げられた実例としては、アメリカでの移民政策による母語が英語ではない生徒に対して、プロジェクト校の成果を日本に取り入れることは、同様の研究をすすめている志水宏吉教授の調査レポートもある。その取組は、徹底したテストの繰り返しを行って、授業改善をすすめたことで、学力の定着や伸長が図られた。

また、在日コリアンの年配の方へのインタビューでは、かつて教員から排除された経験が語られる場面があり、学校は排除が起こりうる場所であることを意識しなければならないと感じたこともあった。

 荒れた学校から立ち直るきっかけとして、学校行事に母親に関わってもらうこと(役員等)で、母がまわりの保護者から賞賛され、母自身をエンパワーさせることで荒れが収まっていったという事例もある。しんどい学校になりきらないためには、あえてしんどい取組も仕掛けて行うことも必要ではないか。

 児童養護施設の方針で、中学校卒業後は進学させないという方針の施設もあったが、施設の方針に抗うことはできない。公立学校であるなら、そうした児童養護施設に居続けられるためには、高等学校に進学させることを目指して実現させようとアプローチした同和教育推進校の経験教員が試みられた実例もある。

 講演の中でも触れた、『指導の論理と支援の取組』は、学校の取組の両輪ではあるが、指導の論理を優先すると暴発を招いたり、排除にさえ向かったりする危険性すらある。指導の論理で暴発を防ぐことにも注力しなければいけない。

 自立を促すために、保護者や生徒本人には区役所の窓口を紹介し、教員は事前に訪問日などを区役所の窓口に伝えて、「黒子」に徹しながら生活の安定を図る取組もあった。

 ・パネリスト(中村さんから):児童理解のために、学年主任が集まって共通理解を図る取組(会議)を継続して実施している。それは、生徒指導や総合育成支援などの多方面に及ぶことも多い。職員室の雑談の中でさえ、児童の名前が挙がり、常に子どもの話題にしていることは勤務校の良い所だと自負している。

 ・パネリスト(佐藤さんから):教員と生徒との関わりの大切さを改めて強く感じた。

 ・コーディネーター(稲垣さん)から:最後に、パネラストの方々から今回のパネルディスカッションを踏まえて、今後の勤務校での取組にどう生かしていこうと考えておられるかを発表して頂きたい。

 ・パネリスト(中村さん)から:『公立学校は最後の砦』であると強く考えさせられた。「知ろう」として教員が動くことによって、学校は円滑に機能すると感じる。

 ・パネリスト(佐藤さん)から:生徒の喜びは、(教員である)自分の喜びとして考えて取組をすすめていきたい。

 ・西田教授から:中学校の建て直しに関して、20名近い教員から聞き取ったインタビューでは、以下のような実践事例が報告された。

@  部活動の指導で、(生徒本人や保護者との)信頼関係を強めることができた。

A  生徒指導委員会に養護教諭が参加することにより、ケース会議などを頻繁に実施して、生徒の情報収集や教職員との情報共有ができて効果的であった。

このような実践を踏まえて、最後のメッセージは、以下のとおりであった。

【パネルディスカッション後の西田教授からのコメント】

分かっているけれど、実践することは難しいと評されることの多いテーマであるが、公立学校しか踏みとどまって支援することができる場はないのではないか。(セイフティネットとしての公教育の原点を再確認してほしい。)

 

 

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