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第36回部落解放研究京都市集会

  第1分科会

部 落 の 歴 史

天皇制と部落問題

                              京都会館第2ホール

  司  会     丸山 義和 (部落解放同盟京都市協議会)

  進  行     山内 政夫(部落解放同盟京都市協議会)

  講  演      「部落の起源と天皇制」

                上杉  聰(関西大学講師)

            「部落間差別問題と天皇制」

                千本 秀樹(筑波大学教授)

   *参加者     440名 

■はじめに

 第1分科会では、従来から「歴史」を大きなテーマに議論を深め、昨年度は、『京都部落問題研究資料センター通信No.12 灘本論文「部落解放に反天皇制は無用」をめぐって』というテーマで、部落解放運動と天皇制の問題について討議しました。

 その中で、3人のパネリストがそれぞれ意見を述べ、議論を戦わせましたが、議論する範囲が広すぎたこともあり、3人の主張がかみ合わず、未消化に終わった感もありました。

 しかしながら、天皇制と部落問題について、タブー視することなく、真正面から採り上げたことは非常に意義のあることと考えております。

 そこで、今年度も、昨年度に引き続き、「天皇制と部落問題」をテーマに採り上げ、関西大学講師の上杉聰氏、筑波大学教授の千本秀樹氏の二人をお招きして、それぞれの立場から意見を述べていただきました。

■上杉氏講演「部落の起源と天皇制」

 まず、被差別部落の起源を考える場合、「部落差別とは何か」という定義から始めなければなりません。今まで私たちは、「非人」や「穢多」と呼ばれていた人たちは、士農工商の最底辺に位置する人々であると習ってきましたが、史料を見ると、「士農工商の外」と記述されています。これは、どういう意味かというと、「非人」や「穢多」とは、読んで字のごとく「人に非ず」「穢れが多い」です。だから、「人間の中にいてはならない」、「人間の中に加えない」という意味なのです。京都、大坂、江戸の中心の被差別部落は、すべてお堀によって隔離されています。福岡の場合は、堀ではなく、土塁によって隔離されています。被差別部落を隠す、覆うことにより、被差別部落民と一般の人が親しく顔を接して交際できないようになっていました。町の中に被差別部落民が紛れて住んでいるということは、通常ありえないというのが部落差別の基本的なあり方です。

 なぜこれにこだわるのかというと、私たちは、被差別部落民を「最底辺に位置する人々」とイメージしてきた結果、奴隷と混同していると考えるからです。しかし、「穢多」や「非人」を奴隷として売り買いしたという話は聞いたことがありません。「奴婢」や「下人」という言葉を聞いたことがあると思いますが、これは奴隷です。日本社会では、古代から人身売買が連綿と行われ続けてきました。そうした売買される人々とは別に、人に交わらない人として被差別部落民がいたことを、被差別部落の定義として押さえる必要があります。

 このように、人と交わることがない、「人の外」、「社会の外」と言われる人たちは、歴史の上ではいつ頃現れるのでしょうか。『塵袋』という1280年頃の史料に、「穢多」や「非人」という言葉が現れ、「人と交わらない」と記されています。また、927年の『延喜式』という史料を見ると、御所から見て東北、即ち鬼門の方向にあって、御所の守り神に位置づけられている下鴨神社の南に住んでいた「濫僧(後の非人)」や「屠者(後の穢多)」が、ケガレているという理由で、追放されています。

 しかし私は927年の『延喜式』を被差別部落の起源とすることには慎重です。理由は、『延喜式』は、天皇家の守り神である下鴨神社をケガレから守るため、濫僧や屠者を追い出したという差別を示す史料であり、確かに差別は始まっているわけですが、まだ被差別部落が一つの集団としてまとまった形をなしておらず、部落差別の始まりの前段階ではあるが、被差別部落の発生そのものではないと考えているからです。

 では、まとまった集落を形成しはじめたのはいつ頃でしょうか。1015年の『小右記』という史料を見ると、天皇をケガレから守るために、御所の近くで人間や動物の死体が放置されるとして、検非違使という警察に死体を処理させています。しかし、検非違使は天皇直属の警察で、とても位が高いため、彼らが死体を直接処理したとは考えられません。当然、誰かにやらせたに違いありません。ここで、1016年の『左経記』という史料を見ると、検非違使は、「河原人(後の穢多)」にやらせていたということがわかります。つまり、河原人はこの時代、1015年頃になると、都から追放される代わりに、京都の町周辺に住んで、「キヨメ」として検非違使に使われることが始まったと考えられます。そして、キヨメの仕事に就き、収入を得、牛の皮を手にし、そこで生活をすることができるようになりました。そうすると、被差別部落は、社会の外に完全に放逐されるのではなく、半分社会に足をおいて、しかし社会の中に本当に入ることはできない微妙な位置に設定されたと考えられます。つまり、完全な排除ではなく、ある程度入れながら、しかし仲間に加えない形で社会の周辺に位置づけるというのが部落差別の特徴であり、本質的なものだと思います。この摂関家全盛の時代、天皇を利用して権勢を振るった藤原氏の時代に被差別部落ができたと考えることに、大きな間違いはないと思います。そして、天皇家と天皇の都をいかにケガレから守るかということで被差別部落は設定されたのです。

 このことを、別の側面からも説明できると思います。鎌倉時代中期までの地図を見ると、京都や奈良の周辺にしか「非人」の集落はありません。鎌倉時代後期には、鎌倉にも「非人」集落ができますが、それまでは、京都や奈良あたりしかありません。これは何を意味しているのかと言うと、日本で権力の集中していた場所、即ち京都(奈良)で、キヨメとして被差別部落が発生したということです。そして、京都が震源地となって、全国に被差別部落が拡大していったと考えられるのです。

 明治41年に作られた全国の被差別部落の分布図を見ると、被差別部落の人口比率が高いのは、京都、兵庫、奈良、和歌山、愛媛の順です。もし、権力が被差別部落をつくったと仮定するなら、京都に権力があったときにつくられたと考えなければ説明ができません。もし江戸時代に被差別部落をつくったとすれば、被差別部落の人口比率は江戸が一番高いはずです。しかし江戸には少なく、これは、江戸幕府がつくったのではないということを示しています。明らかに天皇の権力のもとで被差別部落がつくられたとしか説明できないと思います。

 被差別部落民の仕事は、清掃と警察、治安の管理です。被差別部落は、死のケガレと罪のケガレを取り払う仕事をする者として、検非違使のもとに設定されたと考えられます。その設定に検非違使が関わっている以上、彼等を管理・統率した天皇の意向や藤原家の意向が明確に反映していたと思います。

 914年の『意見封事十二箇条』を見ると、為政者が作っている社会の秩序から外れて、税金などを納めず、河原などに住んでいる貧しい元農民などを差別する姿が出てきます。彼らが税を納めず、河原で楽しげに生活していたら困るので、一般民衆にこの人たちへの差別を呼びかけつつ、京都の町の清掃をさせたというのがキヨメの発生だと思います。一般民衆は、彼らは税金も払わないケガれた人たちで、町をキヨメてくれる人たちであるという認識を持ちます。人そのものに対する差別、人がケガレているという感覚です。さらに、都の外に仮住まいして、町の中に入ってきては物乞いをするケガレた人たちを町の外へ追い出すために、民衆は、彼らを京都の入り口の辻々に立たせました。流民を使って流民を追い出すというやり方です。これが治安管理、警察の仕事です。こうした清掃機能と警察機能を持った人たちを為政者がつくったという、極めて権力的な作用が部落差別の発生だと思います。

 京都の町人にとって、このようなキヨメは、自分たちの自尊心をくすぐる存在だったと思います。なぜなら、「彼らは我々と違って税を納めない代わりに、町の中を清掃してくれる」、即ち「我々はきれいにしてもらう納税者だ」と思うからです。民衆はプライドを持つことができます。しかも、為政者にとっても、社会の外にいる人たちに治安管理をやらせるわけですから、一石二鳥、これほど便利なものはなかったと思います。民衆に納税しているプライドを持たせ、清掃と治安は被差別部落の人たちにやらせる。民衆が差別にとらわれることによって、初めて差別は効果をもたらします。権力的ではありますが、民衆の心にまで食い入るようなものとして、部落差別は民衆の中へ入っていったと考えられます。

 そして、室町時代には、「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」という差別意識まで記した史料が明確に現れ、民衆自身が部外者へ対する排除の傾向を深めます。血筋にまでケガレというものが覆いかぶさってきたのです。そして、江戸時代になると、それが制度になるわけです。900年代に戸籍がなくなって以来、1600年頃まで、それぞれの身分を確かめるものは何もありませんでしたが、江戸時代になると、宗門人別帳がつくられ、結婚などで人が移動する時も、身分を記した書状がいっしょに送達され、身分がどこでも確認できるようになりました。こうやって、差別が制度化され、被差別部落の人たちは、どこへいっても差別から逃れることができなくなりました。そして、ひとたび差別が制度になると、今度は逆に制度が差別を生み出す形になっていきました。

 このようして、人が人を差別することが義務にまでなるのというのが江戸時代です。こんな形で被差別部落の歴史は進みます。宗門人別帳は、江戸時代のはじめにつくられましたが、江戸でつくられたのではなく、京都でつくられはじめたのです。なぜなら、宗門人別帳、即ち戸籍は、天皇が古代につくったものだからです。そこから、被差別部落の人たちが差別にがんじがらめになっていくわけです。天皇がそういうことまで計算したとは思いませんが、天皇制という限り、天皇を支えるシステムそのものが天皇制だと思います。天皇制には戸籍も含まれますし、人を排除して民衆を管理することも天皇制の一つだと思います。私は、天皇個人が憎いわけではありませんが、天皇制は憎みます。その意味で、天皇制と被差別部落の関係を、明確に認識していく必要があると思います。

 

■千本氏講演「部落間差別問題と天皇制」

 「部落間差別」、この言葉を使う理由は、二つあります。一つは、部落という言葉が差別語と誤解されて、それが差別問題を議論しにくい風潮をつくっていることをただしたいからです。もうひとつは、差別を部落と部落の関係の問題としてとらえるべきであるということです。今日は、この「関係」の問題を主題にしたいと思っています。

 問題は、天皇制と部落間差別をどう考えるかということだと思います。まず、システムとしての天皇制を考えるとき、政治システムとしての天皇制と、イデオロギー、つまり、私たちの生活の中の文化的、精神的な面に対する天皇制の影響を考えなければならないと思います。

 水平社と天皇制の関係についても、初期の水平社は、差別者に対して、明治天皇の思し召し、解放令に反しているという論理で、徹底糾弾をやりました。しかし水平社は、一つの立場で固まっていたわけではなく、様々な人が様々な立場で運動を展開しており、その中で、天皇制とのスタンスはいろいろでした。水平社と天皇制の関係がこうだったから、現在の部落解放同盟もこうでなければならないということは決してないと思います。

 上杉さんが著書の中で、日本の資本主義と部落差別の関係について、日露戦争後に始まった終身雇用制によって、企業が被差別部落の人々を排除するようになったという興味深い指摘をされています。日露戦争以前の職人は、腕を磨くためにいろいろな親方のもとを渡り歩くワタリ職工が中心で、企業は被差別部落の人々を排除しなかったが、終身雇用制の成立によって、企業が被差別部落の人々を採用から排除するようになったというのが上杉さんの主張です。

 それに触発されて私が考えたのは、企業が家族という形をとるということです。そして、家族制度も天皇制と結び付いています。1890年代に、「大日本帝国は天皇を頂点とし、臣民を赤子とする、ひとつの家族である」という家族国家観が成立します。家を国家の単位とし、そして、家そのものも家父長制でミニ天皇制になっている。日本は、国家と企業と家族が相似形をなしており、その基本形が天皇制国家であると私は考えました。

 それぞれのシステムが異端を排除する。家族が異端者を排除するのが結婚差別で、企業が異端者を排除するのが就職差別です。そして、国家が排除するときに起こる事態が部落間差別ではないかというのが、私が近代の見取図の中で立てている一つの仮説です。

 今の社会の中で差別の問題を考えるとき、重要なのは中流幻想です。政府の意識調査で「あなたの家庭は、上流、中流、下流のどれに当たると思うか」という調査をすれば、90%の人間が「中流」と答えますが、これはなぜでしょうか。

 実は、質問の仕方にからくりがあって、上流、中流、下流の3つの中から選ぶのではなくて、上、中の上、中の中、中の下、下の5つの中から選べというふうになっています。そうするとほとんどの人々は、「上じゃないな、中の上と言っておけばいいか」「下は惨めかな、中の下と言っておくか」という意識が働きます。これがからくりです。かつて岸本重陳さんは、「中流意識はあくまでも幻想だ。決して、9割が本当に中流の暮らしを営んでいるのではない」と指摘されました。その通りだと思います。しかし、私がここで注目したいのは、「中の上」「中の下」と言った人たちが、それぞれ、自分たちと区別する「上」「下」というものを、どういう存在として意識したのかということです。もちろん、アンケートに答えるときに、そこまで考えているわけではないと思います。「上というのはおこがましいな」、「下はちょっと惨めだな」ということぐらいかもしれません。「中の上」と答えた人に、あえて、「上はどういう人たちですか」と質問したら、どう答えるでしょうか。ここに、「ミッチーブーム」の秘密があると思います。

 1958年、今の天皇夫妻の結婚が発表されて、大変なミッチーブームが巻き起こりました。大衆天皇制の成立とも言われ、現在の天皇制が確立しました。平民の娘が皇太子妃になったということは、目を見張るようなことだったと思います。天皇家と親戚になることができる。天皇の縁戚関係になることが資本家階級の人々の間で流行するようになりました。直接、皇族と結婚しなくても、天皇と親戚関係になっている有名な家はあるので、資本家は娘や息子をそういう家の人と結婚させることもできます。ミッチーブーム以降、天皇と親戚になることが上流社会の証しとして確立したのです。「社長をやっているが、まだ天皇家と結びつきがないし、雇われ社長だし、中の上にしておこうか」。そういう人たちが上流を意識する場合、明らかに天皇家の存在があります。

 「中の下」と答えた人たちに、「下はどういう人たちですか」と質問したら、どう答えるでしょうか。生活保護受給者、ホームレス、日雇い労働者といった人々があげられるのでしょうが、その中に、被差別部落の人々は入ってこないのでしょうか。もちろん、被差別部落の人々がすべて貧しいわけではなく、お金持ちもいますが、差別観念とはそういうものです。被差別部落の人々を下と見なして、自分たちは違うものとして認識する。そういった中で、中流幻想が成立するのではないでしょうか。国家と企業と家族の相似形の問題、中流幻想、天皇制、部落間差別、これらの問題が複雑に絡み合っているのが現代の日本のイデオロギーだと思います。

 この問題をどのように考えていけばいいのでしょうか。中世起源説が語られるようになってから、被差別部落の歴史をどういう視点で見るのかが問題になってきました。差別されてきた悲惨な歴史、差別と闘ってきた歴史としてだけとらえるのではなく、「誇りうる部落の歴史」ととらえようではないか。自分たちの祖先がどのようなすばらしい能力を持っていたのか、どのように社会に貢献してきたのかを掘り起こすことによって、誇りうる歴史としてとらえたいということです。

 私は、「誇りうる部落の歴史」という見方は、水平社創立のときに、差別される側が悪いのではなく、差別する側が悪いと発想の転換をしたことに次ぐ、二回目の大転換であり、大変意義のある見方だと思うのですが、ここで私はひとつひっかかったのです。「誇る」とはどういうことなのか。被差別部落の人々であれば、誰でも誇りうる存在なのか。何を誇るのか。自分の存在そのものを誇ることができない被差別部落の人々はたくさんいるわけです。では別の見方はできないのか。それが私が言う「関係」の問題です。

 私は、部落解放運動は差別を撤廃することだけが目的ではないと思います。差別のない社会とは一言で言えば、弱肉強食の能力主義の社会です。しかし、決して部落解放運動は、弱肉強食の社会を実現しようとしているのではないと思います。差別の問題を考える中で、抑圧する、抑圧されるという関係をも解決したいと考えているのではないでしょうか。差別の撤廃を考える中で、人間と人間の関係をつくり直すことが部落解放運動の目的だと思います。

 盧武鉉大統領が来日したとき、新聞の見出しに、「盧武鉉大統領スピーチ」、「天皇陛下お言葉」とありました。私はこれを見て「あれっ」と思いました。どうして「スピーチ」と「お言葉」なのか。盧武鉉大統領のほうが国賓、お客さまです。お客さまを上げるのが日本の礼儀です。だとしたら、「盧武鉉大統領閣下」と書かなければいけない。ところが、盧武鉉大統領は呼び捨てにして、天皇には「陛下」と最大の敬語をつけている。国賓に対してとても失礼なことをして、それをおかしいと思わない私たち、それに気づかない私たちは、実は、天皇制によって大変な無礼者にされてしまっているのではないでしょうか。人間と人間の関係をきちんととらえられない精神的な支配構造が、現在の象徴天皇制にあるのではないでしょうか。天皇制イデオロギーによって、そういう関係を強いられている私たちが、関係をつくり直すということ、それが部落解放運動にとどまらず、私たち自身が日々やるべきことではないでしょうか。人間と人間の関係をつくり直す、水平社宣言に言う人間と人間が尊敬しあえる関係をつくる場として、私たちが主人公になるまちづくりそのものが、天皇制イデオロギーから脱却することだと思っています。

■まとめ

 昨年に引き続き、「天皇制と部落問題」をテーマにお話をいただき、昨年よりも突っ込んだ議論ができたと思いますが、いくつか議論できなかった点もあると思います。例えば、中世の賤民と天皇の関わりについて、灘本氏は、「両者は確かに親密な関係にあった」と述べられており、これは事実だと思いますが、「賤民のほうも天皇を仰ぎ見るような親しみを持っていた」というのは、これまでの考えを根底から覆す重要な問題提起であり、下から見る人間、上から見る人間について、もっと議論をする必要があると思います。また、水平社との関係についても、灘本氏が述べられていることと実際とは違うのではないかと思います。更に、現在の問題についても、かなり示唆を受けるお話をいただきました。

 本日の上杉氏と千本氏の意見を踏まえて、今後、どのように議論を発展させていくのか、来年も引き続き、こういう場で議論することを楽しみにしています。本日はどうもありがとうございました。

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