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第45回人権交流京都市研究集会

第5分科会

   「自由討議」

―わたし自身と差別問題―

「これからのまちづくりを考える」〜子供・若者が育つまちづくり活動の試み〜

 

 

   話題提供  前川 修 (希望の家地域福祉センター)

 石田 房一(NPO法人ふれあい吉祥院ネットワーク センター長)

 

司会進行  廣瀬 光太郎

 記録 町野 覚

分科会責任者 松田 國広

 

 部落問題を始めとする色んな差別、人権問題について自由に本音で語り合う場としての本分科会の趣旨が、司会者から語られた。

 分科会参加者による自由な対話の糸口として、東九条地域で活動されている「希望の家地域福祉センター」の前川修さんから話題提供を受けた。

 現在、希望の家が立地する東九条地域は、京都駅の南側、鴨川沿いにあり、京都市内でも高齢化が進んでいること、外国籍市民が多いことが特徴である。

 戦後の混乱期に多くの困難を抱え生活する東九条や崇仁地域を目の当たりにした一人の神父が呼びかけ、希望の家は1959年に誕生した。

 崇仁地区の屋形町に建てられたトタン葺きバラックの小さな家で、学校に行けない子供や学校から帰っても世話する大人がいない子供達に補習学級を開いたのが最初の事業であった。

 1960年には東九条岩本町に移転して診療所や困りごと相談所も開設し、いわば民間の隣保館、アメリカで言うセツルメントのような地域住民の生活全体をサポートする施設に発展した。ボランティアのお医者さんが、病院に行けない貧しい人々を無料で診察した。

 事業の拡大に伴い手狭になった施設を拡充するため、1965年には地域の人々の募金により新館が建てられた。

 二代目所長のマンティカ神父は、「崇仁や東九条の人々が、彼等の生まれと家系のために差別されている。私達は、この偏見を打ち壊さなければならない。」と言っている。希望の家は、被差別部落や在日コリアンの困難さ、差別問題と共に歩んで来た。60年代になっても、災害や不況のたびに多くの人が東九条に集まって来た。バラック住宅が密集し、火災が多く発生した。またバブルの時期には、大きな住民運動で地上げに対抗した。そして火災や地上げに対して安心して住める公営住宅の建設を要望し、実現させた。その一階に、私達のセンターが入っている。

センターは今では、京都市から児童館事業(学童クラブ事業と児童館事業)や地域福祉事業(高齢者配食事業、地域多文化交流ネットワーク促進事業など)を受託して事業を行っている。

 続いて、NPO法人ふれあい吉祥院ネットワークの石田さんから、地域課題とその解決に向けた取り組みについて報告があった。

吉祥院は近郊農村地域で昭和30年代から都市化が進展し、南区全体では人口が減ってきている中、最近でも世帯数と人口が増加している。新旧住民の意識の違い、世代の違いからネットワークが断絶し、住民同士のつながりが希薄化している。

地域内には旧同和地区、在日居住地区があり、マイノリティ問題、人権問題が地域の重要課題である。これら地域の課題を解決することで、差別のない安全で安心して暮らせるまちづくりを実現する取り組みを積み重ねてきた。

1980年に解放同盟吉祥院支部を立ち上げたことが、まちづくり運動の始まりである。その5年後に、部落問題だけではなく吉祥院全体を人権が大切にされる街にしていこうと言うことで、支部、行政、学校関係が集まって人権啓発推進協議会を発足させた。

まちづくり運動は、地域活性化事業として、ふれあいジャンボリー、子ども工作教室、オータムコンサート、各者団体との協同事業として地蔵盆、子ども神輿、クリスマス会、社協交流会等を行っている。安全安心推進事業として、立命館大学にもかかわってもらいワークショップ、青パト運行などを行っている。

そして重要無形文化財の六斎念仏踊りの継承という文化的要素をまちづくりに活かし、子ども・若者たちと具体的なアクションプランを練り、学区全児童を対象に六斎教室、六斎歴史研究会、六斎寺子屋を実行している。

隣保館事業の廃止にともない地域のNPO法人が事業を受託したことから、市民活動センター、診療所、児童館、デイサービスセンター等の複合施設を地域資産として効果的に活用できる基盤ができ、地域活動の活性化につなげる。

 吉祥院六斎歴史研究会の清水美優さん、西片里紗が学生、若者としての関りを報告した。

 まちづくり運動の歴史にふれながら、歴史研究会のまちづくりに果たす役割を述べた。また、地域の若者が自分と同じように、自然に六斎念仏へ関わる流れをつくることを訴えた。

 

 

 

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