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基調

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第45回人権交流京都市研究集会

  第 45回人権交流京都市研究集会基調

 

はじめに

1 私たちを取り巻く情勢と課題

(1)差別事象の情報開示請求とガイドライン

(2)戸籍不正取得と本人通知制度

(3)特定秘密保護法の問題点と身元調査

2 福祉で人権のまちづくり

3 人権確立に向けたこれからの運動展開

(1)障害者差別解消法と人権侵害救済法の道筋

 (2)多文化共生社会をめざして

 (3)国際基準に照らした人権確立をめざして

4 教育をめぐるこの一年の状況

 (1)小学校の取組

 (2)中学校の取組

  

 

第45回人権交流京都市研究集会基調提案

はじめに

 20世紀、世界中の国や地域を巻き込んで、人類に多大な悲劇をもたらした二つの世界大戦をふまえ、人権および自由を尊重し確保するために「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として世界人権宣言が採択され、昨年は65年という節目の年でありました。

しかし、一昨年12月の衆議院総選挙、昨年7月の参議院選挙と、ともに圧倒的議席数を獲得した現政権は、数の力を背景に、なし崩し的に平和憲法を形骸化し、戦争のできる国作りを進めようとしています。特に、昨年126日、「特定秘密保護法」は、国民の7割以上が反対し、ヒヤリングやパブリックコメントでの反対意見、連日に渡る国会周辺はもちろんのこと、全国各地での反対行動、マスコミ、知識人、芸能人等の抗議声明にも関わらず、首相は「議論は尽きた」「どこかで決断する必要がある」などと述べ、多くの人々の真摯な声と、議論の継続への願いを圧殺するがごとく国会で強行採決されました。かつて、侵略戦争を遂行するための国民統制として1925年に制定された治安維持法にも匹敵する悪法と言われ、民主主義の基本であるところの、知る権利、表現の自由などが脅かされる法律が、やすやすと成立していく経過が、すでに危機的な状況そのものでありました。

 12月は、その後も、国家安全保障会議基本戦略の公表、沖縄普天間基地の辺野古移設承認、首相の靖国神社参拝等、「平和」「安全」という言葉を弄し、実は近隣諸国との軋轢をあえて作り上げるという好戦的な態度を表明しています。この社会が少しでもより良いものとなるために、これまで私たちが使ってきた「安心・安全」という言葉、「平和」という言葉が、戦争へと通じる、真逆の意味合いで使われています。私たちは文脈そのものをよく吟味し、意味するところを理解する人権感覚を磨いていかなければならないと思います。

 社会に生きる一人ひとりの主体性を飛び越えて、事態が進行していく様は、それぞれの個人に無力感さえ植え付けるかのようでありますが、こうした状況であるからこそ、人権という概念に照らし合わせて、豊かな関係性と、互いが尊重しあう態度を養う場が必要とされています。部落解放京都市研究集会から人権交流京都市研究集会へと名称を変えて7回目となる、第45回の私たちの集会が、あらためて、かつて歩んだ戦争への道を再び歩まないため、差別を許さない、違いを認め合い理解しあえる社会を実現するための契機となることが望まれます。

 

1 私たちをとりまく情勢と課題

(1)差別事象の開示請求とガイドライン

 昨年7月、京都市交通局で、地下鉄構内での差別落書きや市バス運転手に対する差別発言など、連続した事件が発生しているとの情報がありましたが、京都市からの連絡もなかったことから、全局、全区役所を対象に20114月以降、20136月末までの2年余の差別事件、人権侵害について公文書開示請求を行いました。828日に文書開示があり、多くの部局にかかわり、差別事象が発覚しました。部落差別事件が2011年に3件、2012年に3件の計6件。民族差別は2012年に4件、2013年に22件の計26件が開示されました。中には、掌握すべき人権文化推進課にも知らされていなかった事件も多くあり、局によって報告する判断基準がばらばらであること、差別事象にかかわる認識の違いも明らかになりました。

 特に、昨年3月から6月にかけて発生した民族差別の落書きは、内容も筆跡も酷似していることから、同一人物による犯行であると推測されますが、落書きされたトイレに関して、地下鉄は交通局、道路は環境局、図書館は教育委員会、市立体育館は文化市民局、公園は建設局と、管理する部局が分かれ、なおかつ相互に差別事象の報告がなされなかったことから、個別に記録としてとどめているだけで、市内中でいたる所大量に落書きされていたことが把握されませんでした。これは、20105月に京都市が作成した「差別事象に係わる対応についてのガイドライン」の内容が、差別事象については基本的には各局・区で対応するとしつつ、特定の個人への重大な人権侵害および差別意識を助長するおそれがあるなど社会的影響を及ぼすと判断される事案は、調査、啓発等を行うというものであるため、各局・区の判断が主観的、恣意的なものになってしまったことが原因です。

 また、ガイドラインにおいても、差別落書きの具体的対応として、1.事実確認および記録、2.消去、3.報告などの手順が示され、特に施設の所管課または通報を受けた所属は、所属長から人権行政推進主任(局・区の庶務担当部長)へ、さらに人権課題に係わる各所管課へと報告する旨が記されているのであり、今回、交通局以外はその報告さえも怠っていたというべきでしょう。また、環境局に関しては落書きの記録を、清掃を委託している業者に写真撮影も含めた対応をまかせ、写真データも不明瞭なまま放置していて、「事実確認および記録」さえもおろそかになっていたのです。

 差別事象を掌握するべきは、文化市民局人権文化推進課ですが、この度のように、執拗な民族差別が生じた場合、所管課としては総合企画局の国際化推進室が把握している必要があったはずであり、対応もされてしかるべきところ、そうした認識もほとんどの局にありませんでした。差別事件に関して「同和問題」への対応に偏りすぎているという批判からか、一般的な「ガイドライン」が示されたものの、実際には全ての事象について「対応しない」という方向に傾いていた実態が浮かび上がります。京都市が「人権文化の息づくまち」となるためには、全局・区が一丸となった統一的基準が、改めて示されるべきだと考えます。

 

(2)戸籍不正取得と本人通知制度

 発覚した大量の戸籍等不正取得事件をきっかけとして、住民の戸籍等を直接に取り扱う市町村は抜本的対策が請われると同時に、住民自身が、自らの個人情報の宝庫であるところの戸籍等が第三者によって取得され、悪用されたとしても、それを知りえないという人権侵害を解消するためにも、取得された本人に対する被害者通知制度の確立がまず、提起されました。これは、取得された戸籍が、明らかに不正取得であることが判明(取得した第三者の刑事罰が確定した場合)してはじめて、取得された本人に通知するものです。これについては、京都市を含む京都府内26市町村の全てが、昨年、制度が確立され、京都市においても、昨年8月に58件の通知をしています。しかし一方で、被害が生じた後で「通知」されるのは、事後的対応であり、不正取得そのものを未然に防ぐ手段としては弱いものがあります。また通知された被害者も、なぜ取得されたのかと不安に感じるケースもあるようです。

 一方で「事前登録型本人通知制度」はあらかじめ望んで登録した住民に対して、誰であろうと第三者がその住民の戸籍等を取得した場合に通知してくれるというものです。それによって、身に覚えのない第三者の取得に対して、問い合わせ、対抗することが可能となると同時に、悪徳業者がその個人の戸籍等取得を断念するという効果があるのです。ただし、こちらはあくまでも、事前に住民が登録しなければ通知はないのであり、自らの個人情報を積極的に守るのだという市民の姿勢が重要になります。

 この「事前登録型本人通知制度」が確立されている自治体は、昨年10月までに全国で378ありますが、京都でも福知山市、舞鶴市など10の市町村が導入しています。宇治市を含む山城地域での導入と、京都市が遅れた形となっていますが、未然に防ぐための手段として有効であるという確認から、よりスムーズな運用となるよう様々な方面で議論が進行し、この24日の市会「くらし環境委員会」で、6月からの制度実施が報告されました。これが実現すると、全国都道府県の中でも京都府が、全ての市町村が導入する先鞭となります。自治体として、人権に配慮し何よりも尊重するという態度表明として画期的な事例となることでしょう。このように、個人情報、中でも差別を増長する身元調査に通じる戸籍等の個人情報の第三者収集に対して、それを防ぐために、様々な工夫や努力が積み重ねられてきたという現状があります。

(3)特定秘密保護法の問題点と身元調査

 「特定秘密保護法」は、「はじめに」でも述べたように、人々の知る権利を阻害する悪法ですが、私たちの観点からして最も問題だと思われるのが、この法律が権力による身元調査に対し、法的根拠を与え、濫用される恐れがあるということです。法は第五章「適正評価」(行政機関の長による適正評価の実施)として、第十二条に、特定秘密を扱う者の身辺を調べるとしています。その対象者は、府省庁職員や防衛関連企業の社員ら数万人とも10万人以上とも言われています。情報を集めるのは警察庁や公安調査庁が中心となり、家族(配偶者・父母・子・配偶者の父母・子・兄弟姉妹−事実婚含む−)の氏名、生年月日、国籍、本人の精神疾患の有無、借金などの経済状況、犯罪(懲戒)の経歴、薬物使用、飲酒の節度など7項目にわたる個人情報を収集する権限が与えられることになります。たとえ確証がなくても、思想信条などから「テロリスト」と認定されれば、公務員だけでなく、一般市民もその対象となり得ます。

 (2)でも述べたように、身元調査が結婚差別や就職差別に結びつくことがないように、自分自身の個人情報をしっかりと守っていこうという取り組みが継続されてきましたが、この法律により、対象となった市民は、一瞬にしてプライバシーを丸裸にされる危機の中で生活せざるを得なくなってしまったのです。

さらに危惧されることは、一般市民の側が、この法律による縛りをあらかじめ意識することにより、婚姻関係を結ぼうとするときに、より積極的に上記の項目について相手の身元をさぐり、事前に忌避しようとする行為が喚起されるのではないか、他者への不信が広がり、互いの信頼が失われるのではないかということです。

 人権を守っていくという視点から、この法律が施行するまでの期間、まだまだ多くの点検と権力の濫用をくいとめる働きかけが重要です。何よりも、私たち市民の一人一人が、自分自身の人権=個人情報と同時に、他者の人権も尊重していくという態度を、今後も強い気持ちで継続していくことが望まれます。

 

2 福祉で人権のまちづくり

2011年2月に京都市が発表した「京都市市営住宅ストック総合活用計画」は、同和地区に建設された、いわゆる改良住宅を含めた公営住宅が築後50年近くを経過して老朽化が進んだことから、浴室がなく33uと狭隘な住宅の建替えをはじめ、住み替えを行うことにより、環境モデル都市行動計画及び耐震改修促進計画などを推進する事業であります。

また国においても、高齢者や子育て世代など多様な世代が住む、コミュニティバランスがとれた地域のまちづくり、活性化を提唱しています。具体的には、子育て世代の公営住宅入居を一定期間促進すること。住み替え(集約)などを進めることによって生じた新たな用地を活用して、高齢者や障がい者のための社会福祉施設を整備すること。京都市が七条地区に計画している「市立芸術大学誘致」など、様々なアイデアと知恵を出し、地区の活性化と雇用創出などを図ることです。

私たちは、この計画を活用して、福祉で人権のまちづくり運動を構築する方針を確立しました。少し詳しく説明しますと、現在、市内の同和地区内の改良住宅の入居率は、6割前後と言われています。しかも、高齢者や生活困窮者が多く、住宅事情などの事由で、若年の自立層は地区外に転居しています。そのことは、かつての地区では想像できなかった隣人の孤独死があり、助け合い(共助の精神)の希薄化が進行して、地区の沈滞化に拍車をかけています。

以前から心配されてきたこととして、各地区の改良用地の一部に、未買収物件のまま無断使用されたり、契約済なのに所有権移転登記が放置されたままの状態など、でたらめな事務処理がされている可能性が指摘されていました。そこで、市協まちづくり部会では、2012625日に情報公開請求を行いました。その結果、7地区26筆(約1921.79u)の用地が私有地のまま放置されズサンで不正常な実態が明らかになりました。しかも瑕疵の箇所が、改良住宅敷地内、保育所敷地内、隣保館敷地内などにあり、ストック総合活用計画の推進に大きな弊害を生じさせています。私たちは、直ちに原因究明と解決策を求めて、何度も話し合いを進めてきました。京都市は、地区の計画に支障が出ないように優先順位を決めて京都市の責任で解決すると回答されています。

もう一つの課題は、この登記問題が解決しても、用地の殆どは国からの補助金が投入されているため、住宅用地を社会福祉施設整備に転用、また、社会福祉施設用地を住宅用地に転用や用途変更することは「補助金の適正に関する法律」により原則的にできません。これは一般事業や同和事業に関係なく、補助金が投入されているすべての用地や建物が対象になります。

各地区のまちづくりや市が行う事業を遅滞なく進めるためにも、「補助金適正化法」の弾力的運用をはじめ見直しを求めて、部落解放同盟中央本部等の協力を得て国土交通省交渉を重ねてきました。国土交通省は、全国的にコミュニティバランスを促進し、空家活用などの事業を推進するために、避けて通れない課題であることは承知している。提案されている案件については京都市と個別協議をして地域の取組を加速化させたいと前向きな考えが示されています。同時に、現行の地区施設を活用して保健、福祉、医療をはじめ人権問題を啓発する施設活用を進めてきました。

その先行事例として、千本地区にある楽只旧隣保館を活用した「ツラッティ千本」や七条地区の柳原銀行記念資料館、東三条地区では旧東山保健所分室を「訪問介護ステーション」などに利用されています。一昨年には、西三条地区に旧中京保健所分室を活用した「訪問看護ステーション」が、続いて吉祥院地区にも旧南保健所分室を活用した「小規模通所介護施設(小規模デイサービスセンター)」が運営されるなど、公共性と公益性を加味し、かつ地区や学区高齢者などにとって気軽に相談できる身近な施設として再生されています。

他方、いま現在、我が国の高齢化率は世界で類を見ない早さで進行し、2025年には、いわゆる団塊の世代が後期高齢者となり超高齢化社会をむかえます。京都府及び京都市においても例外ではなく、直近の各高齢者健康保健福祉計画などでも、府内の高齢化率は25.8%、市内では23.2%と全国の22.8%を上回っています。このように人口構造が大きく変化する中で、住み慣れた地域で安心して暮らせるように福祉施設の基盤整備が進められていますが、充分なものとはいえません。特に、京都市内では身体に障害のある約6割の方が70歳以上の高齢者であり、その対応は喫緊の課題でもあります。

このような現状を踏まえ、社会的ハンディのある人々が安心して老後をいきいきと暮らせるように、「京都市市営住宅ストック総合活用計画」を活用し、人権を視座とする高齢者並びに障害者等が利用できる複合的施設の整備計画を進めていきます。そのことが、地域福祉の増進を図ると同時に、新しい労働力を確保することで若年層及び障害のある人等の雇用創出を図り、社会貢献に寄与し、真に、福祉で人権のまちづくりを推進していくことだと思います。

 

3 人権確立にむけたこれからの運動展開

 

(1)     障害者差別解消法の成立と人権侵害救済法への道筋

 2013619日「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」が、参議院で可決・成立(全会一致)しました。法律制定の背景としては、2006年に第61回国連総会で、障害者権利条約と同議定書が採択され、日本は20079月に条約に署名したものの批准には至っていないということがありました。障害者団体は、国内に障害者を差別させないための法制度が整っていないとして、批准にむしろ反対しましたが、この法律の制定により昨年12月やっと国会で条約批准の承認がされました。法律の施行は201641日であり、約3年の期間を設け、各自治体での条例制定、ガイドライン策定など、その内実を充実させることが求められています。これまで国連が中心となって締結された人権諸条約に日本が入る前に、国内法が整備されることは少なかったのですが、障害当事者団体の粘り強い運動の成果として、国際人権基準が国内法にきちんと盛り込まれることとなりました。また、背景のもう一つの要因としては、2009年の民主党政権誕生が後押しになったこともあります。

 障害者差別解消法の差別規定としては、大別して「不均等待遇」と「合理的配慮の不提供」の2つがあります。「不均等待遇」とは、障害または障害に関連する事由を理由とする区別、排除又は制限その他の異なる取り扱い。「合理的配慮」とは、障害者の求めに応じて、障害者が障害のない者と同様に人権を行使し、又は機会や待遇を享受するために必要かつ適切な現状の変更や調整を行うことをいいます。これを行わないこと、すなわち「合理的配慮の不提供」が差別となります。ただし、相手方にとって「過度な負担」が生じる場合は例外となります。

 障害者差別解消法は名称に「差別」が入っている日本ではじめての法律となります。そこで「簡易迅速な実効性のある裁判外紛争解決の仕組みを早急に用意するべき」、すなわち人権委員会などの、独立監視機関の設置が求められていましたが、201212月、現在の政権党である自由民主党は、設置に断固反対という政策を掲げ、障害者の権利を救済する独立機関の設置を盛り込むことはできませんでした。20164月の施行までに、国や自治体は「障害者差別解消支援地域協議会」を立ち上げ、「対応要領」と「対応指針」というガイドラインを、きめ細かく作成していくことになります。

 しかし、例えばDV被害を受けた女性障害者などの「複合差別」の場合、縦割りの行政機関では「たらいまわし」にあう危険性を、個別法では十分回避できないことを考えると、人権救済に向けた独立機関の設置は必要です。私たちは今後も、「差別の解消」そして「人権委員会設置」に向けた道筋を、共に模索していきます。

 

(2)     多文化共生の社会をめざして

@    多文化共生とは

現代社会では、グローバル化がますます活発になっています。まず国境を越えた人の動き、モノや情報の動きがあり、さらにそれが人々の価値観や生き方の多様さを生んでいます。もはや地球上には、国籍や民族にとらわれない、無数の「文化」が存在しているといってもよいでしょう。「多文化共生」とは、こうしたさまざまな生き方が共に存在する社会であり、自分が自分らしく生きる社会であると考えます。

21世紀の初めに生きる私たちは、19世紀にできた「国民国家」の幻想から解き放たれ、新しい社会観を模索しなければなりません。その過渡期にあって、私たちは価値観の衝突や異文化間の摩擦に数多く直面することになりますが、それはプロセスであって結果ではないのです。「多文化共生とは国籍や民族の異なる人が、互いの文化的違いを認めあい、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員としてともに生きてゆくことです。」(2006年総務省「多文化推進に関する研究会報告書」より) 

A    台頭している新たな排外主義

多文化共生の理念に逆行する排外主義の活動が近年活発になってきています。現在、日本にはヘイトスピーチが蔓延しています。その対象は、旧植民地出身者である在日コリアン、台湾出身者だけでなく、移住労働者とその家族である「ニューカマー」の韓国人、中国人、ブラジル人などの様々な国籍の人々、難民(申請者)、非正規滞在者など、多様な立場の外国籍者や民族的マイノリティーのみならず、アイヌや沖縄の先住民族にもその刃は向かっています。被差別部落の人々、女性、障がい者、性的マイノリティーもターゲットになっています。

 ヘイトスピーチは公人、マスメディア、インターネットなどや、直接的表現形態としての街頭宣伝(排外主義デモ)などを通じて撒き散らされ、差別を煽り立てています。例えば、日本軍「慰安婦」制度の犠牲者たちに対して「嘘つき売春婦」と悪罵を投げつけ、想像を絶する苦痛を加え続けているのは、民間のレイシスト(差別主義者)だけでなく、彼らに悪影響を与え続けている公人の存在があります。安倍晋三首相は2007年第一次安倍内閣の際に、「日本軍に強制されて連れてこられた証拠はない」と開き直り、石原慎太郎維新の会共同代表は、以前より「売春婦」と冒涜する発言を繰り返してきました。2013年橋下徹維新の会共同代表は「慰安婦制度は必要だった」と述べました。201212月、侵略と植民地支配の責任を否定する発言を繰り返してきた安倍晋三自民党総裁が首相に返り咲き、朝鮮学校の高校無償化からの排除方針を発表し、河野談話の見直しや靖国神社に祀られた「英霊」の賛美など、反中国・韓国・朝鮮の姿勢をあらわにしました。それに鼓舞されるようにインターネット上でも路上でもヘイトスピーチは頻繁化、過激化しました。排外主義デモは20133月からの6ヶ月間で全国で少なくとも161件あったとの調査報告があります。(朝日新聞116日記事)

近年になって社会問題化した排外主義デモがこれまでと異なるのは、インターネット上で差別的な書き込みを繰り返して来た人々が、ネットを通じて連絡を取り合い現実の運動団体と化し、マイノリティー集団に対する直接の暴言、暴行を公然と行うようになったことです。その中心的存在である「在特会(在日特権を許さない市民の会)」」は、2007年第一次安倍内閣と時を同じくし誕生しました。また2013年度になって頻繁になるのは第2次安倍内閣を誕生させた社会の雰囲気がその背景にあるのではないでしょうか。

B    ヘイトスピーチは犯罪か

マイノリティーへの偏見と差別、デマゴギーを専らとするヘイトスピーチ・排外主義デモは差別の扇動であり、重大な人権侵害を意味する犯罪行為(ヘイトクライム)へと繋がります。しかし現実には「表現の自由」として警察は黙認してきました。

1995年、日本は人種差別撤廃条約の締結国に加盟し、2年に1度の実施状況の報告提出義務を負いましたが、2013年1月の報告書で日本政府は@「正当な言論までも不法に萎縮させる危険を冒してまで処罰立法措置をとることを検討しなければならないほど、現在の日本が人種差別思想の流布や人種差別の扇動が行われている状況にあるとは考えていない」とし、A「現行法で対処可能」B啓蒙等により「社会内で自発的に是正してゆくことが最も望ましい」等の従来の主張を繰り返しました。警察がヘイトスピーチ・排外主義デモを許容している理由は日本政府の政策を反映しているものなのです。突き詰めれば、「表現の自由」を理由にヘイトスピーチの法規制に反対する主張は、差別的表現の自由も保証されるべきであり、「不快」な表現は被害者が我慢すべきだということになります。

 ヘイトスピーチによって被る被害は、マイノリティーに対して我慢を強いることが許される程度のものなのでしょうか。身分制度や植民地支配などの歴史的に形成された差別構造の中で、いく世代にもわたる差別体験の記憶を背負わされ、また日常的にも様々に理不尽な差別を受け、民族的・人格的尊厳、アイデンティティを傷つけられて苦しめられている人々です。実際にその属性ゆえに虐殺され、排斥され、暴行され、差別されてきた直接的経験あるいは家族やコミュニティの記憶が、個々人のアイデンティティの一部を形作っています。また現在も、社会生活上のあらゆる場面で差別があり、日常的にその属性を意識させられています。ヘイトスピーチは幾世代にもわたる社会全体からの差別と暴力の恐怖、苦痛を蘇らせ、今後も自分にそして次世代の子供たちに対しても一生繰り返されるかもしれない絶望を伴うが故に、マイノリティーの心身に極めて深刻な悪影響をもたらしています。

他方、排外主義デモに憤り、抗議する「カウンター」と呼ばれる直接行動は活発化しており、レイシスト集団のデモを数倍上回る規模で展開されていることも指摘しておかなければなりません。しかし、「憲法で保証された表現の自由」をやめさせることはできず、日本が既に加盟している人種差別撤廃条約で義務付けられた法的規制の誠実な履行を迫る運動へと集約されていくことが期待されます。

 

C    京都朝鮮第一初級学校事件裁判

京都においても在特会を中心とした人々によるヘイトスピーチ・排外主義デモは繰り返し行われてきました。中でも京都朝鮮第一初級学校に対する街宣活動は、被害者である京都朝鮮学園が警察に告訴状を提出したことにより刑事事件となりました。

20106月には学校法人京都朝鮮学園が原告となり、襲撃者のうち主導的な9人および在特会を被告として、差別的な街宣活動を差し止め、これまでの行為に対して賠償金1000万円の支払いを求める民事裁判を起こしました。

201310月7日、民事裁判の判決で京都地方裁判所は差別街宣を単なる不法行為ではなく人種差別撤廃条約の規定する人種差別にあたると認定し、1220万円の損害賠償義務を認め、将来にわたって学校の半径200メートル以内における街宣等を禁ずる判決を出しました。同判決は、在特会らの街宣活動は公益目的の「表現の自由」との主張に対し、「在日朝鮮人の基本的自由や平等を妨げる目的は明らか」として一蹴しました。その上で、人種差別撤廃条約6条が、裁判所に対して人種差別の被害者が被った損害に対し「公正かつ適正な賠償」を求める権利を確保する法的義務を負わせていることから、被告らの人種差別行為がもたらした無形の損害について「公正かつ適正な賠償」となるよう加重すべきとし、高額の認定をした点で画期的なもので、現行法を適正に適用すればここまでできることを示したものでした。他方で、繁華街などで繰り返されているヘイトスピーチは特定人・特定しうる集団に向けられたものと特定できないために、現行法(侮辱罪・名誉毀損罪・脅迫罪・威力業務妨害罪・信用業務妨害罪などが想定される)では規制できず「新たな立法なしに行うことはできない」と指摘しています。

この事件は、レイシスト集団の活動を規制するために現行法でできることとできないこと、新たな立法なしではヘイトスピーチ=差別の扇動を規制することはできないことを明確にした点で大きな意味を持っていると言えます。

多文化共生社会の実現をすすめるうえで、不可欠に行うべきことは差別偏見にもとづいた犯罪的行為を規制する立法を行うことです。不可能なことではないはずです。

 

(3)     国際基準に照らした人権確立をめざして

 

 国連で採択される条約は、冒頭で述べた世界人権宣言を基本として、人権にかかわる世界的に共通なスタンダードとして提示され、合意する国々が条約を批准します。批准した国は、自らの国の法律が基準を満たしているかどうかを点検し、至らない点があれば、新たな法を作成したり、現行法を改正したりする必要があります。国連には各条約にもとづく委員会が設置され、批准した国は条約が守られているかどうか、国の現状を報告する義務を負います。

 昨年9月に最高裁大法廷が違憲と判断した民法第900条第4項の婚外子相続差別規定ですが、これまで、女性差別撤廃条約と子どもの権利条約を批准している日本は、差別規定を撤廃するように、それぞれの委員会から10数回にわたる勧告を受けてきました。元来であれば、勧告を受けた立法府が速やかに法改正を行うべきところ、長い間(30年近く)それを怠ってきたのです。相続をめぐる裁判では、最高裁の5人いる裁判官で合憲・違憲が二人ずつ、残る一人は留保つきでかろうじて合憲というような、微妙な判断を長く続けてきました。しかし、ここに来て裁判所も業を煮やした形で違憲を出したと言うべきでしょう。126日に民法は改正され差別規定が削除されましたが、出生届での嫡出子・嫡出でない子の区別をチェックする欄は残りました。チェック欄に抗議する窓口闘争を続けてきた女性団体に対して、法務省は、欄の正当性を唯一「相続差別」と説明してきたのです。しかし、ここに来てなお、政府自民党は「結婚せずに子どもを産んだら子どもは差別される」という『見せしめ』をなくすことはありませんでした。国連からの度重なる勧告内容は、子どもを差別する「嫡出」「嫡出でない」などの用語を法律からなくすようにというものでしたが、ここに来てなお、日本政府は真摯に対応しようとしていません。

 婚外子差別の規定を違憲としたこと、障害者差別解消法が成立したこと、ヘイトスピーチに対する厳しい判決等は、昨年、私たちの社会で少しずつ人権状況が進展してきているという証であるとはいえ、一方で、国際的なスタンダードからすると、これまで余りにも長い間到達していなかった基準に少し近づいたというのが現実です。何かというと「わが国の伝統」や「淳風美俗」を前面に出し、特別な国であることを強調することで、国連からの様々な勧告を無視し続ける態度は、他の国々から傲慢不遜と受け取られかねません。

 また、犯罪事件の容疑者に対する、過剰な拘留期間や取調べの密室性なども、国連から改善を求められている大きな項目としてありますが、法務省は遅々として改革を進めようとしていません。狭山事件が発生し、石川一雄さんが逮捕されてから、昨年で50年となりました。殺人事件の容疑者として石川さんが逮捕された背景には、「部落」「よそ者」という予断と偏見がありましたが、さらに、捜査においても万年筆や手ぬぐい等の証拠のねつ造、自白にいたるまで徹底的に追い詰めていく過程など、民主主義とかけ離れた手法で調書が作成され、起訴されたこと。さらに検察が保管する大量の証拠が隠蔽され、この数年でやっと一部開示されたものの、現在も鍵となる証拠は隠され、再審請求もかなわないことなど、到底許しがたい現状が放置されています。狭山事件の他にも、袴田事件、名張毒ぶどう酒事件、またえん罪を訴えながら実際に死刑執行がされてしまった飯塚事件など、尊厳が回復されなければならない多くの命があり受刑者がいます。半世紀にわたる石川一雄さんの訴えが司法に届き、取り調べの可視化など、日本の司法の民主化が実現することは、私たち一人一人の人権が保障される社会への道筋であることを共通の認識にしたいと思います。

 2011311日に発生した東日本大震災から、もうじき3年の歳月をむかえます。宮城県、岩手県では、震災がれきの処理がようやく完了しようとしていると報じられましたが、福島県では、東京電力福島第1原発事故の影響で処理も遅れ、観測用井戸水から放射性物質が過去最高値の高濃度で検出、建屋から漏水が確認されるなど、人体や環境へ今もなお甚大な被害が生じている現状が伝えられています。廃炉に向けた作業の遅延、避難を強いられている人の帰還がままならない状況など、復興への道のりは依然厳しいものがあります。活火山が連なり、活断層の上に暮らす日本において、原子力発電所を設ける危険性を私たちは忘れることはできません。原発は、当初からエネルギー供給としての効率については疑問視されていたところ、その目的をプルトリウムの取り出しという「軍事目的」であると指摘してきた識者もいます。また、原発構内で働く労働者は、全国から非正規、日雇いで募集され、低賃金で被爆作業を強いられるという問題も見過ごせません。人権・環境・平和を求める私たちの立場から、3項目全てを脅かす原発推進の方向性は容認することはできません。

 地球規模で人類の生存を脅かす核と戦争は、子どもたちの未来を奪います。「同和教育基本方針」が制定されてから50年が経過する本年、私たちは、あらためて、生まれや、国籍や、性別にかかわりなく、すべての子どもたちが、すこやかに、幸せに暮らすことのできる未来を生きていけるように、願わずにはいられません。

 

 

4 教育をめぐるこの一年の状況

 

 では、ここからは教育を取り巻く状況について述べていきたいと思います。

 一昨年度の大津市の中学校で起こった、いじめを苦にした生徒の自殺の問題以来、文部科学省や各自治体では「いじめ」の撲滅に向けた取組を強化しています。一昨年度から、「いじめ」に関するアンケートの実施や、教育相談などの場面を活用しての聞き取り調査なども実施され、各学校でも「いじめ」の根絶に向けて取り組んできました。

昨年628日には、全六章三五条からなる「いじめ防止対策推進法」が公布され、928日付で施行されました。ここで、その内容について簡単に触れておきたいと思います。

先ず、第一章の総則では、第一条で目的、第二条で定義、第三条では基本理念が規定され、第四条では「児童等はいじめを行ってはならない」といじめの禁止が謳われています。その後、第五条で国の責務、第六条で地方公共団体の責務、第七条で学校設置者の責務が規定された後に、第八条に学校及び学校の教職員の責務が次のように規定されています。

「学校及び学校の教職員は、基本理念にのっとり、当該学校に在籍する児童等の保護者、地域住民、児童相談所その他の関係者との連携を図りつつ、学校全体でいじめの防止及び、早期発見に取り組むとともに、当該学校に在籍する児童等がいじめを受けていると思われる時は、適切かつ迅速にこれに対処する責務を有する。」

 また、第二章では、いじめ防止基本方針が打ち出され、第十三条で「学校いじめ防止基本方針」を策定することが定められました。このことによって、本市の各学校でも、今後これを作成していくことになり、現在、教育委員会と連携しつつ準備を進めているところです。

 ところで、この法律に規定されていることに目新しいことは何もありません。言わば当たり前のことが書かれているのです。学校で、いじめが起こったら、保護者や関係機関と連携をしながら、その解決に向けて対処するのは当たり前です。むしろ、これまで当たり前として対応してきた事柄を法律として制定しなければならない状況を大いに反省しなければなりません。そして、いじめの起こらない集団をつくることこそが大切であるという基本理念へと帰る必要があるでしょう。

京都市では、「目の前の一人ひとりの生徒を徹底的に大切にする」という教育理念のもと、学校教育の根幹に人権教育を据えて取り組んできた歴史があります。今こそ、その精神へ立ち返り、改めて人権教育に力を入れて「集団づくり」に取り組むべきだと思います。人権教育に力を入れるとは、児童生徒が、互いに仲間のことを正しく理解し、相手意識に立って発言したり行動したりできる集団をつくることです。そして、こうしてでき上がった集団では、いじめが起こるはずはないと思うのですがどうでしょう。

 第九条に保護者の責務が規定されているのですが、その中に注目すべきところがあります。第九条は、以下のとおりです。

「保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、その保護する児童等がいじめを行うことのないよう、当該児童等に対し、規範意識を養うための指導その他の必要な指導を行うよう努めるものとする。」

子の教育について、第一義的に責任を有するのが保護者であることを述べたうえで、子がいじめを行わないように指導すべきことが定められています。そして、第二項で、我が子がいじめを受けた場合のいじめからの保護が、第三項で、国や自治体、学校が行ういじめ防止等の措置に協力するよう規定しています。

 いじめについて、いじめられる理由や要因があるからいじめが起こるという人がいます。たとえ、どのような理由や要因があろうとも、いじめる人がいなければいじめは起こりません。これは、差別の場合も同じです。そういう意味では、いじめを受けた場合のことよりも先に、いじめをしないような子に育てなければならないということが明記されたことには大変大きな意味があると思います。

 

 いじめや差別の起こらない集団が出来上がった実践をひとつ紹介したいと思います。

かつて、「高校へ進学するのが怖い」と言った生徒に出会いました。その子は被差別部落に住む生徒でした。「中学校までは、自分のことをみんなが知ってくれているから差別されるようなことはなかったけれど、高校へ行って、多くの知らない人たちと出会ったとき、差別されるかもしれないと思ったら怖くて仕方がない」と言うのです。そんな声を聞いた時、その子を救えるのは、小学校や中学校で共に学んだ仲間しかいないと考え、学校を挙げて仲間づくり(=集団づくり)に取り組みました。

 この取組が、人権学習のあり方を大きく転換させるきっかけになりました。

それまでの人権学習は、どちらかというと教師のレクチャーが多かったように思います。読み物やVTRなど、生徒の心に働きかける資料を使って教師が熱弁をふるいます。先生が気合いを入れて取り組むので、『この時間は、なにやら大切だ』とばかり生徒も熱心に聞きます。感想文もよいものが書かれます。

生徒が自分のことを語り合う学習(語り合いの学習)にシフトしてからは、人権学習に向き合う子ども達の表情が、明らかに柔らかくなりました。生徒は、部落に生まれたとか育ったということ、親が外国人であるということ、母子家庭であることや兄弟姉妹の中に障害のある子がいることなど、自分の背景を語り、日頃から感じている不安や悩みを自分の言葉で次々と仲間に打ち明けます。教師は、こうした生徒の語りを受け止め、集団へと返しながら進行するのが役目で、話す場面や時間は大幅に減ります。

仲間に「言えた喜び」「聞いてもらった喜び」が自分の置かれた環境を受け入れることに繋がり、それが自信へと発展します。一方、「聞かされた喜び」「打ち明けてもらった喜び」が仲間の理解と信頼へと繋がりました。

そうして出来上がった集団は、授業中も休み時間や放課後も男女共に仲がよく、明るく活発で、学年内でのトラブルはほとんど起こりませんでした。行事はいつも楽しく盛り上がり、学年や全校で行う人権学習の時間を生徒達は大変楽しみにしていました。人権学習の時間が「堅苦しい、しんどい時間」から「楽しい時間」へと変化し、この学習を繰り返すことで出来上がった集団には、深くて強く豊かな人間関係が生まれました。

 

 先日、高校1年生に対して3年毎に実施されているPISAの学力テストの結果が発表されました。我が国は、数学的リテラシーは7位に留まりましたが、読解力と科学的リテラシーでは4位に入り、世界のトップレベルに返り咲いて名誉を回復した形となりました。

これまでの数回、この結果が下位に位置したことで、前回の学習指導要領の改訂において、教科の時間数を増やす方向で教育課程の見直しが行われていましたので、このことは、新聞やTVでも大きく報道されました。

また、昨年8月には国内で中学3年生と小学6年生に対して毎年実施されている「全国学力・学習状況調査」の結果が出されました。本市の中学生は、これまで小学生が常に全国のトップレベルに位置していたにも関わらず下位に低迷していました。教育委員会の強い指導のもと、各学校でも対応策が練られ、今回ようやくその成績が全国平均を越え、大きく改善することができました。このことも新聞等で取り上げられました。

「失われた10年」という言葉があります。これは普通、ある国や地域の経済低迷が約

10年以上の長期にわたる場合の期間を指す言葉ですが、これが教育についても使われることがあります。1998年の学習指導要領の改定で、教科の時間が大幅にカットされ、替わって「総合的な学習の時間」や「選択教科」が教育課程に導入されました。教科書が薄っぺらになったことで、PISAの学力テストでの調査結果が低迷したとされたのです。そして、これ以降の教育が「失われた10年」と言われました。

このときの教育を受けた子どもたちは、本当に学力が低いのでしょうか。その人たちは現在、若い人で高校3年生、多くは大学生か若手の社会人となっています。大学生や教師を目指す若者の前で「教職の魅力」や「教師の心得」について話をすることがあります。そして、講義の後には、必ず質問や感想を述べる場面を設定しているのですが、その人たちを見てきて思うことがあります。それは、それ以上の世代の人たちと比較して、彼らには圧倒的に発言力があるということです。それまでの日本人には、大勢の人の前で自分の意見を述べるということが苦手だという人が多くいました。しかし、“ゆとりっ子”などと言われたりもするこの世代の人たちは、こちらが驚くほど上手に人前で意見や思いを述べることができます。

私達が「総合的な学習の時間」や「選択教科」の中で大切にして取り組んできた教育実践の成果が現われている部分なのかもしれません。

そういう姿を見ると、決してこの時代の教育は失われていなかったと感じます。

 

ところで、私達は一体どういう人間を育てたいのでしょう。端的にいうと、「人から好かれる賢い人間」です。世の中に賢い人はたくさんいます。しかし、「いくら賢くても、あんな奴は…」と非難される人もいます。それでは、“人に好かれる…”とはどんな人物でしょうか。人の気持ち、とりわけ人の痛みが分かり、相手の立場や意識に立って判断や会話、行動の出来る人です。狭義の学力はもちろん大切です。しかし、それと同じくらいにこのことが大事だと思うのです。私たちは、教科の学習と合わせて人権学習や道徳学習を通して心を耕し、「人から好かれる賢い人間」を育てていきたいと思っています。

今、心を耕すと書きました。このことについてもう少し詳しく述べたいと思います。

20年ほど前の基調に「心の植木鉢」の話を書きました。

生徒はみな、心に植木鉢をもっています。その土が耕されずパンパンのままだと、いくら水を撒いてもその水は土の上に溜まるだけです。一方、しっかりと耕されていると“すーっ”と浸み込み、根から確実に吸い上げられます。各教科の先生が数学や国語や英語の養分をいっぱいに含んだ水を撒いた時、それがどんどん沁みこむよう、土をフカフカにしておく必要があります。心の植木鉢の土を耕す時間が、道徳や学級・学年活動や行事、部活動や総合的な学習の時間で、とりわけ人権学習の時間なのだと思います。

これからの社会人は世界中の人を相手に生きていくことになるでしょう。世界には様々な人種や民族がおり、それぞれに異なる文化や習慣をもって生活しています。これらの人々と上手く交わるためには、狭義の学力が要求されるのはもちろん、相手のことを尊敬しながら受け入れ、こちらの思いを確実に伝えていける力が必要になってきます。

今こそ、学校教育の根幹に人権教育を据え、「心の土」をフカフカに耕す取組を実践することで「人から好かれる賢い人間」を育てるべく教育活動に携わっていきたいと思います。

 

(1)小学校の取組

 

 小学校同和教育研究会では、これまでの取組を継承しつつ、次年度に向けて、活動方針をより充実したものになるよう改善を図ろうとしています。

 その背景には、次のようなことがあります。

1925年当時の、同和地区児童生徒の長欠不就学の実態改善の取組を起点に、その後、同和教育方針やいろいろな特別措置法を裏付けとして、京都市における戦後の同和教育の取組が展開されてきました。いわゆる「施策の時代」は、同和地区児童に焦点をあてた取組が実施されてきました。しかし、狭義の学力保障や生活改善の取組から、高校進学を中心とした進路保障の取組へと徐々に移行していきました。さらに、学力を広くとらえ、豊かな経験や確かなコミュニケーション能力・人権感覚、いわゆる「生きて働く力」を育てる方向へと発展していきます。これは、様々な課題を背負わされた児童・生徒を含めて、すべての児童・生徒「一人一人を徹底的に大切にする」という、今の京都市の教育の中心理念に受け継がれています。

一方、世代交代のうねりの中、オールロマンス事件を一つの契機として始まった同和地区児童生徒への学力保障の取組や、1964年に出された、「教育の全分野において、それぞれの公務員がその主体性と責任で同和地区児童生徒の『学力向上』を至上目標とした実践活動を推進する」とした同和教育方針に基づく取組など、先人の実践を知らない世代が多数を占める状況が生まれつつあります。つまり、大切にされてきた実践と理念の継承が難しくなってきているという教育現場の事情があるのです。

また、国連の「人権教育のための10年」(1995年〜2004年)や、「人権教育・啓発に関する基本計画」(20023月閣議決定)のような国内外の動きもあります。この基本計画では、「学校教育における人権教育の現状に関しては、『教育活動全体を通じて、人権教育が推進されているが、知的理解にとどまり、人権感覚が十分身に付いていないなど、指導方法の問題、教職員に人権尊重の理念について十分な認識が必ずしもいきわたっていない等の問題がある』」と指摘されています。これを受け、「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」(以下[第三次とりまとめ])が、2008年に文部科学省から示され、人権教育に関する取組の一層の改善・充実を求められました。京都市においても、1999年から2010年にかけてまとめられた「《学校教育における》人権教育を進めるにあたって」が出されています。

上記のことを踏まえ、本研究会では、これまでの同和教育の取組を土台にしながらも、人権文化の構築という目標に向かって人権教育の充実発展を期し、 [第三次とりまとめ]を基本にして人権教育の創造を推進していく、新たな活動の方向性を見出そうとしています。

 ところが、20023月の法切れを受け、「同和教育は終わった」「同和問題は解決した」などといった短絡的な考えも聞かれるようになってきました。残された人権課題として、国が同和問題の存在を掲げていることを引き合いに出すまでもなく、土地差別や結婚差別、インターネット上での誹謗・中傷といった事象を目の当たりにするとき、厳しい部落差別が今なお現実として存在していることを認めざるをえません。このような社会の有り様を憂うとともに、旧同和地区児童生徒ばかりでなく、すべての児童生徒の豊かな将来展望を願い、同和教育の理念をこれからも大切にし、実践を推し進めていかなければならないという強い思いをもちます。

そこで、研究会では「これまで取り組んできた同和問題をはじめとするあらゆる人権問題解決に向けた教育の取組の大きな成果を評価し、それを基盤・土台にして、これからは現代的なあらゆる人権課題の克服・解決に向けた教育の取組を創造する」という方向性を示そうとしています。

それにともない、研究会の目的も、「同和問題の解決のための教育の成果を基盤に、あらゆる人権問題を解決するための教育を研究・推進する」に改めようとしているのです。

 また、指針も、「同和教育の普遍化を図る」から、「同和教育の普遍化としての教育を検証し、確かなものとする」という表現に変えようとしています。それは、法切れから10年以上経ていることを踏まえ、この10年を検証するとともに、具体的で確かな人権教育へと変えていくためです。同和教育の普遍化を図る段階から、取組の検証と確立をする時期であると捉えているのです。そして、「人権としての教育」という視点からも、やはり同和教育で大切にされてきた「学力保障」を、「あらゆる人権問題解決に向けた基盤になると捉え、すべての児童の学力向上の取組へ発展させる」とし、指針に位置付けようとしています。

 さらに、取組の重点でも「学力保障」を「学力向上」と改め、従来の二項目に加え、新たに、「人権感覚の育成が、児童生徒の自主性や社会性等の人格的な発達の促進のみならず、学校の役割の大事な部分を占める学力形成においても成果を上げる『効果のある学校づくり』をめざす」を付け加えようと考えています。

テキスト ボックス: ※効果のある学校(effective school)
「教育的に不利な環境の下にある児童生徒の学力水準を押し上げている学校」において,学力の向上と人権感覚の育成とが併せて追求されている点に注目し,人権感覚の育成は,児童生徒の自主性や社会性などの人格的な発達を促進するばかりでなく,学校の役割の大事な部分を占める学力形成においても成果を上げていると指摘されている。一人一人の個性やニーズに応じた基礎学力を獲得するためには,学校・学級の中で,現実に一人一人の存在や思いが大切にされるという状況が成立していなければならない。
「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]
−指導等の在り方編−」より

 

具体的な取組について、昨年8月に行われた第7回京都市小学校人権教育研究集会の分科会発表から見ていきたいと思います。

第一分科会は、「学力保障」をテーマに、分科会の主題を「自らの責任でない様々な制約により、個性や能力を十分に伸ばし切れていない子どもに焦点を当て、一人一人の自己実現に向けた学習を構築する」としました。ここでは、一人の児童を支えるために、学力向上プランだけではなく、生活向上や人権文化の構築、さらには、家庭をも含めて外部機関と連携した支援プランをつくり、包括的かつ組織的に指導・支援していく体制作りの重要性が議論されました。

第二分科会では、「自立活動」をテーマに、分科会の主題を「自立の意思や能力を高めるために、『生き方に働く力』を個と集団に育てる働きかけを充実する」としました。課題を背負わされている一人の児童を取り巻く、教師と子ども、教師同士、教師と親、家族と子ども、子ども同士などの、様々な「つながり」を構築していく取組を通して、また、厳しい家庭環境のゆえに施設入所を余儀なくされた児童への全校体制での取組を通して、自立のための学校の役割が議論されました。

第三分科会では、「啓発活動・教職員研修」をテーマに、「同和問題をはじめとする、あらゆる人権問題解決をめざして、保護者との連携を強めるとともに、一人一人の子どもを大切にする教育を実践するための教職員研修を推進する」を分科会主題としました。今年度は、主に教職員の人権意識を高めるための研修のあり方が議論されました。

今、小学校では、虐待の増加や、ケータイ・スマホ・ゲーム機を介したネットいじめやネット被害の増加、いじめにまで至らないまでも「いじり」と称される子どもの行為や、「スクールカースト」と呼ばれる上下関係を伴う人間関係など、人権の視点からは危ぶまれる状況があります。そんな中、児童の中に、確かな人権文化を築き、教師自らも、自らの人権感覚を磨くとともに、人権課題に対する見識を深める必要があります。人権教育の実践を平素の学校教育の、特に普通授業の中で具体化していくことはもちろん、地域・家庭を巻き込んだ総がかりでの人権教育の実現に向けた努力が求められているのです。

このことを、小学校同和教育研究会から、ここに提案させていただきます。

 

(2)中学校の取り組み

 

現在の中学校における人権教育の取組は、各校で各教員が、その状況に合わせ創意工夫を凝らしながら進めています。しかし、同和施策が終了して以来、過去、同和教育に携わった諸先輩の思いやその中で作り上げられ、大切にされてきた理念が少しずつ薄められつつあるのではないかという危惧を覚えます。「人権」を考える上で、同和問題は、避けては通れない課題であり、わが国特有という点で人権問題の基盤となる問題です。「同和問題の解決なくして人権問題の解決はない」という時代ではなくなったのかもしれませんが、同和問題の解決を目指してなされた教育実践から学び、今の諸問題に活用すべきことは大いにあると思います。

同和施策の中で行なわれてきた教育実践を実際に経験した世代が少なくなり、採用年数が10年未満の若い教員が全体の半数近くを占めるようになった昨今、今一度これまでの同和教育のあり方を振り返りながら、施策に頼らない、新しい人権教育を生み出す必要があると考えています。

そもそも、同和教育は「同和問題の解決を目指すこと」を目標としていますが、そのことは今も昔も変わりません。同和地区として指定されているところはなくなったのかもしれませんが、その地域の出身であるという理由で差別されるという実態はなくなったわけではないからです。

「差別のない世界」という目標は、言葉としては簡単なことのように思います。しかし今もこのことが課題となっている現実が、その解決の難しさを示しています。現実には今も様々な差別があり、苦しんでいる人が多くいます。そればかりか、残念ながら新たな人権問題も生まれています。人権問題は、過去から現在に至るまで絶えず存在し続ける問題です。子どもたちの厳しい実態と、教師としてなすべきことは、何一つ変わっていないと思うのです。

 

京都市において、同和対策事業を終了して以来課題としているのが「同和教育の普遍化」です。同和教育の中で最も大切にされていたことは「一人ひとりの子どもを徹底的に大切にする」ということです。この言葉は、厳しい差別に起因する多くの課題を抱えた生徒を、明るい未来へ導きたいと願う教員たちの熱意溢れる教育実践から生まれた言葉です。教師として、目の前の生徒の将来の幸せを願うのは当然です。そんな生徒たちが抱える課題は当然一人ひとり違います。だから、その課題を解決するための手立ては、それぞれ違って当たり前です。それぞれのニーズに応えるため、学校や地域、行政が協力し合い、生徒たちに正面から向き合う中で生み出され、蓄積されてきた全ての教育実践が同和教育です。時間や労力を惜しまず、差別のない世の中にするために取り組んでこられた諸先輩方の熱意やその思いを忘れてはいけないと思います。

 ところで、先生と生徒という関係が成立するためには、お互いの間に信頼関係が必要です。「一人ひとりを徹底的に大切にする」ことで教師と生徒・保護者との間に信頼関係が構築されていきます。その意味でこの言葉は、単なるスローガンではなく、「教師」が「教師」であるために果たさなくてはならない責任なのではないでしょうか。同和教育は、生徒一人ひとりの背景まで把握し、将来への展望を与え、それを実現するために行なわれた教育です。その生徒の将来に本当に必要とされる教育を実践することで、生徒・保護者からの信頼を得られるのはごく当然のことです。

こうして考えると、同和教育が求め取り組んできたことは、本来の教育の目的そのものです。その精神と実践は、何も特別なものではありませんし、教育そのものであるという意味で、自信を持って「普遍性」をもたせなければならないと思います。

 

 残念ながら近頃、京都市における教育がこれまで培ってきた同和教育の理念が薄れつつあると思えることがあります。例えば、可視的な事象のみを捉え、規則・原則だけを押し通す指導が多くなっているように思うのです。物事に規則は必要です。規則が守れないことを指導するのも当然です。しかし、なぜ、その生徒がそのような行動をとるのかに思いをはせているでしょうか。その理由を知ることこそが、本当に生徒に寄り添った教育であり、同和教育の中で大切にされてきたことであるはずです。家庭訪問をはじめとした細かで丁寧な対応が大きな課題のある生徒たちには絶対に必要なのです。

また、人権問題学習のあり方を検討する中で、「人権学習を無難にこなそうとする先生が多くなり、内容が上滑りなものになる傾向がある。」と嘆く教員がいました。教員の若返りが進む中で、人権問題学習で何を大切にして生徒に思いを伝えるのか、戸惑う教員が増えているようです。

人権教育に深くかかわってきたベテラン教員は、人権学習を心で考える学習だと捉えます。一方、若い教員はそういう捉え方が苦手で、また、時間をかけず多くを学びたいと考えるためか、頭で理解しようとします。若手教員は、差別の実態と出会う経験が不足しがちなので仕方のないことかもしれませんが、彼らには人権教育を身近な問題として捉え、自ら学ぼうとする姿勢が求められます。また、今述べた人権教育の捉え方も指導内容と共に今後の教育界へ引継いでいかなければならない課題であると思います。

 

中人研集会全体会の中で、いじめや体罰の問題は、人権教育を学校教育の根幹に据えることでなくなるはずだという提言がありました。今後は、「人権教育を教育の根幹に据えた」実践を各学校から発信していく必要があるように思います。そのためにも我々は自身の知識と目の前にある現実や実態との差を埋めるべく、常に勉強し続けなければならないと思います。

 教育の中には、当然時代と共に変わっていくものがあります。一方で、同和問題の解決を目指してなされていた教育の理念のように、絶対に変わってはいけないものもあります。しかし、理念ばかりが先行し、具体的な実践を伴わなければ何の意味もありません。

「目の前の生徒を徹底的に大切にするとは、具体的にどうすることなのか。」今後生徒の課題に共に向き合う際には、常にこのことを念頭に置いて目の前の生徒の教育に取り組まなければならないと思います。

 かつての人権教育は、差別される立場にある生徒をどう支え、逞しく育てるのかに焦点が当てられてきました。被差別部落出身の生徒に対する様々な手立てが、学力面や生活面に課題のある他の多くの生徒たちにも有効であると信じ取り組まれてきました。それゆえに、差別される側に特化した取組ばかりがなされていたと、一方では見られたのかもしれません。そのように見られたことについては反省をしなければなりませんが、その当時は、そうまでしなければ、差別問題を現実的な課題として取り上げることができなかったのでしょう。しかしこれからは、差別する側の人間も含めて差別問題を考える必要があるのではないでしょうか。そのためにはまず、全ての人間がお互いの背景を理解し合い、協力し合える関係を作ることが求められています。

自分が差別者にならないような判断や行動が出来る生徒、差別に加担せず毅然とした態度を突き通せる生徒、間違ったことを間違っていると判断し指摘できる生徒、人それぞれの多様性を認められる生徒など。教育に携わる私たちが人権問題の解決に役立てることは、このような生徒を一人でも多く社会に送り出すことだと思います。

 

 人権への関心が高まり、認識が新たにされたことで、解決に向かった人権問題も多くあったかと思います。その一方で、現代のグローバルかつ競争社会の中、より弱い立場の人々が犠牲となる人権侵害の問題が数多く生まれています。人権問題については、まだまだ課題が多いと言わざるを得ない状況であると思います。一人一人が幸せに生きることが十分に保障されていない社会に巣立っていく全ての生徒に、部落問題をはじめとするあらゆる人権問題解決への実践的態度の基礎を培うために「個が輝く人権教育の創造」を目指して活動していこうと決意しています。

 

 

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