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 全体集会 講演録要旨

 

いのちを食べて いのちは生きる

 

纐纈 あや(映画監督)

上映「ある精肉店のはなし」(ダイジェスト版 25分)

  

 

 

●ドキュメンタリー映画とは
●屠場の仕事との出会い
●北出精肉店との出会い
●映画製作への決意、北出さん、地域の方たちの決意
 ---ダイジェストDVD上映---
●どのように撮影していったか
●映画製作を通して見えてきたこと
●映画に寄せられている感想について
●差別や偏見とは

 

 

今日は貴重な場をいただきありがとうございます。

途中、映画のダイジェスト版も見てもらって、今から90分一緒に過ごしていただきたいと思います。私はドキュメンタリー映画をつくっております。今回2作目の映画「ある精肉店のはなし」という映画が、一昨年11月29日に公開して、もう1年以上が経ちました。今も、映画の上映会で、全国を回っています。私がこの映画をつくったいきさつから、映画を通して見えてきたこと、そして、今上映をしながらいろんな出会いを重ねていますけど、そのようなところからお話をします。

1作目は祝の島(ほうりの島)という映画をつくりました。私がどうしてドキュメンタリー映画をつくることになったのか。というところから、お話しします。

私は短大を出て二十歳で社会に出ました。半導体商社で3年間OLをし、仕事は楽しかったし、優良企業でしたが、ある時ふと、あれ?半導体を何本売ったところで、本当に人の幸せに貢献できているんだろうか、と、思ってしまったのです。その時に、上司の課長に相談したら課長が、「仕事には二通りあると思う。一つは、自分の収入を得るための仕事として割り切って、プライベートをいかに充実させるか。もう一つは、プライベートも仕事の境もなくライフワークとして、一生懸命するという、大きく分けたら二つあるのではないか。纐纈は、これまでの仕事を見ていても、割り切って仕事ができるタイプじゃないから、本当にやりたいことを見つけるまで探したらいいんじゃないか」と。今、本当にその課長に感謝してるんですけど、背中を押していただいたんですね。本当に私が、これをしたい、これをするのだと、そしてそれが、何か人の役に立っていたり、幸せに貢献できていると、自分が納得できるものに携わると言うことがしたいと、会社を3年努めてやめまして、それからありとあらゆる仕事をしたんです。本当に業種も雇用形態も様々なことをしました。そして、ずっとうろうろしていたんです。

その頃、私は本橋成一という写真家で、映画監督と出会いました。たまたま出身学校が同じであるというつながりだったのですが、彼の写真事務所で5年間スタッフの仕事をしました。本橋さんのドキュメンタリー映画のプロデュースなどをさせていただいたりしていました。でも、本橋さんの会社はそこでやめまして、「ドキュメンタリーなんてこりごりだ」と。こんなに大変なことはない。人の人生に首をつっこんで作品を作るということは、映っている方々の人生を、ある意味変えてしまうような、本当に大きなことなんですね。そうやって作品を作っていくということのプレッシャーに耐えられないな、ということもありましたし、自分が映画や写真を撮りたいと思っている訳ではないと。お手伝いでやっていたんだから、もう一度自分がやりたいことを探そうとしたのが30歳を過ぎてからです。そして、またOLに戻ったんです。

そして、OLに戻って、映画館巡りをしながら、あれ?ドキュメンタリー映画っておもしろいぞというふうに思ったんですね。離れてみるとよく分かるということですね。あるドキュメンタリー映画を見たんです。それが、小川伸介監督の満山紅柿という映画です。山形県の上ノ村というところのドキュメンタリーなんですけど、この上ノ村では極上の干し柿が作れるんですね。その干し柿作りを延々と淡々と写しているというフィルムです。とっても美しくて、私はものすごく見入ってしまい、その内にすごく不思議な感覚になったんです。絶妙なタイミングで、様々なことがカメラの前で起きていく。人の会話も猫が横切ることも。偶然回し始めたカメラの前にお爺さんが登場して、この地方でどうしてこれだけ極上の紅柿ができるのか、干し柿ができるのかということをとうとうと説明される。それを見ていて、私は、これはただ偶然に撮れているのではないと思ったんです。撮り手の監督やスタッフと、その土地やカメラの前に立っている人たちとが、きちっと関係を結んで、言うべき時にいるべき場所でカメラを回すと、まるで物語が吸い寄せられていくような、そういう瞬間に立ち会う。映像というのは、撮り手と被写体の人の、関係性において表現できるもの、その関係が表現されるものなんだと思ったんです。そうしたら「私にもできるかもしれない」と、始めて思ったんですね。本橋さんの映画配給をしている事務所にいるときは、私は写真や映画を作っている方達というのは、特別の才能のある人、あるいは、専門的にきちっと勉強した人がやるものだと、ずっと思っていたんです。でも、できるかもしれないと思ったのは、何故かというと「私とあなたとの関係の上に、表現行為が成り立つ」ということに気がついたからなんです。「私とあなたの関係」というのは、唯一ですよね。誰かとその人との関係とも違う。この関係はオリジナルである。そしてそれは、比べるものでも優劣を競うものでもなくて、私がその人をどう見るか、その人に対してどんな思いをもってカメラを向けるのか、ということで、映像は撮れるんだ。その時私は32歳になっていたんですが、32年間、自分と出会う人々と一生懸命に関係を築こうとしてやってきた。それが映像になるんだったら、私にしか見えない世界や、私にしか撮れない映像があるんじゃないかと思ったんです。

そしてその1週間後に1作目の舞台になった祝島に通うことになったんです。エンドロールが流れている内に「よし、ドキュメンタリー映画を作るぞ」と決意していました。なんと遠回りな13年間だったことか。祝島は、本橋さんの作品の上映会で一度だけ訪れたことがありまして、上関原発にずっと反対している島なんですけど、ここに強烈におもしろい方達がいたんですね。私は、行ったときには映画を自分で撮るとは思ってもいませんでしたから、そのままになっていたんですが、あの方達ともう一度会いたいと思いまして、祝島に通い始めました。

 そしてもう一つ、その時に大きな出会いをしていて、満山紅柿を映し出していた映画館のロビーに2点だけ写真が飾られていたんですね。その写真が、本橋成一の屠場の写真だったんです。大阪の松原の食肉センターの写真でした。私は始めて見て、本橋さんの事務所でもずっとしまわれていたものだったんですが、映画の上映が「食べ物特集」ということだったので、食べ物にまつわるということで、屠場の写真が飾られていたんです。今でも忘れられないんですが、その写真を目の前にして、だいぶ長いこと立ち尽くしていました。何か、心が掴まれてしまったんですね。もともと本橋さんの写真はとても美しいんですが、その屠場の写真もとても美しかった。そして私は、屠場の写真を美しいと感じている自分に驚いたんですね。何を美しいと感じているのかちょっとよくわからない。けれども、普段頭の中で想定している美しさとは全く違う種類のものであると、何かの気配がそこにあり、それを私は美しいと感じている。それから、屠場という場所がちょっと気になる場所になったんですね。

 それから私は祝島に通い始めました。東日本大震災が起きて、福島原発が事故を起こしてから、今、マスコミでも原発という文字が載らないことがほとんどなくなりました。報道もそれを積極的に取り上げるようになったと思います。それが、充分だと思いませんけども、それ以前は原発問題ってほとんどマスコミで取り上げられることはありませんでした。国として強力にエネルギー政策の一環として推し進められてきた原発政策。その中で祝島の人たち、山口県の上関町というところにありますけれども、祝島の方達は33年前から、ずっと反対を貫いてきたんです。33年前というと、チェルノブイリの原発事故の前からです。そしていまだに上関原発は埋め立ても始まっていないという状況なんですが、これは、祝島の人たちが反対していなければ、もうとっくに稼働しているものなんですね。ですから、上関原発に反対している人たちがいるということは、ほとんど知られることのなかった話なんです。地元では、あるいはそういうことに関心をもっている人たちには、原発反対の島ということで知られているという、そんな島でした。原発反対の島、と、言われて私は勝手に思い描いていたんですね。イメージがあったんです。そのイメージは、反対し、闘う人々、眉間に皺を寄せて、拳を突き上げて反対という声を挙げている人々の姿です。とても閉鎖的な怖い人たちがいるんだろうと、本当に短絡的なイメージですが、そういうことを思っていました。

 でも、いざ祝島に降り立ったときに、出会う島の人達って全く違ったんですね。みなさん、にこにこしながら、小さな爺ちゃん、婆ちゃん達が集まってきて、「よう、姉ちゃん、どっから来た?あんた、体でかいな。若いな」とか言われながら、「これ、うまいから食べてけ」「一緒に酒飲んでけ」皆さん誘って下さるんですね。その瞬間から、私は原発反対の島ではなくて、自分の故郷、懐かしい場所に帰ってきたという思いになったんです。そういう出会いでした。でも、あるとき、再会をしました。どんな再会かというと、ある地元のニュース、1分か2分くらいの映像の中に祝島の方達がいました。それは、まさに中国電力の人たちに抗議行動をしている姿で、ある、女漁師は、自分の体にロープを巻き付けて、その先をくくりつけて人柱のようになっていました。そして、おばちゃんたちが、泣きながら必死に抵抗して声を挙げている、その姿だったんです。それが、本当に20秒くらい、もほすごく激しい映像が流れて、そして、また祝島の人たちは反対をしていますという短いニュースだったんです。私はそれを見て、ものすごく違和感を覚えたんですね。私の知っている祝島の人たちと違うぞと。上関原発問題にまつわる事として報道する場合はそういう映像になるんですよね。一番激しい、一番わかりやすいところが切り出される。でもこれで、本当に問題を知ったことになるのかな、知った気になっただけじゃないかと思ったんですね。反対するということはわかるけど、なぜ反対しているのか、あるいは何を大切にしている人たちなのかということは、もちろん、報道されないわけです。でも、島の人たちは、反対したくて反対しているわけでも、反対のために生きているわけでもない。反対せざるを得なくて反対しているわけで、あるいは原発問題が来る何百年も前から、島の人たちはそこで暮らしていて、突如として現れた計画に反対している。順序が違うんじゃないのと。言いたくなったんですね。とかく、マスコミの使命としては、今起きている問題を社会に広く知らしめるというそういう大きな使命があります。これはとても重要なことですけども、でも、その中で問題を伝えるために、そこに巻き込まれている人たち、当事者が、問題を理解するための手段として描かれていないだろうかと。そして、それを見ている人間も、撮る人間も他人事、向こうの世界としていろいろ撮って、さらに自分たちのよりよい選択のための情報に消費していないだろうかと思ったんです。私は、出会った祝島の人たちが、何に反対しているかではなくて、何を大切にしようとしている方達なのかを知りたいと。それは、島の中に入って、島の人たちの普段見えている景色から、そこから見えてくる原発問題って、どんなことなのか、それを映像化しようと心に決めた訳なんです。

 そんな形で1作目の映画をつくりました。ですから、これを見て原発問題がどんなものなのか、あるいは上関原発の現状がどんなものなのか、理解できると思って来ましたが、全然思っていたものと違いましたとよく言われるようなものなんですね。

 そして、あの映画館の写真から始まったもう一つの出会いが、進行していきました。それも祝島と東京を往復しながら通っている間に、本橋さんが、ずっとお蔵入りになっていた屠場の写真をもう一度、屠場に通い直して、撮って、写真集にまとめたいと思う、ということで、また通い始めたんですね。それを聞きまして、私はぜひ一度連れて行って下さい、私も見学させてくださいということをお願いしました。で、祝島の帰り道に大阪に寄って、屠場に伺ったんです。なんで、屠場に来たいと私が思ったかというと、その写真から私がずっと気になっていたことがあります。もう一つは、とても大きな別の動機で、普段私はお肉を食べているんですけど、そのお肉の出所を知らないということが、ずっと気になっていたんです。お米も、野菜も、魚も、鶏肉まで、私はそれらが食べ物になる工程を何らかの形で見たことがあったんですね。でも、牛肉、豚肉はその作られる過程を1度も見たことがない。すごくそれが不自然だなと思いましたし、食べるものとして、1度はどんな風にそれが食べ物になるのか、見なければいけないと、そういう義務感をかなり強く持っていました。ですから行きたいと言ったんですね。それど同時に私にはイメージがあって、本橋さんの写真を見てあれ?というのはあったんですが、私のイメージは何だか無機質なものを思い描いていた。機械的に命あるものが食べ物として量産されているという、工場を想像していました。無機質というと、冷たくて、重くて、暗くて、そしてそこで働いている人も暗いのかな、悲壮感が漂ったりするのかな。本当に人間の想像力って勝手なものだと思うんですけど、そういうのを私の中で、どこかで持っていたんです。でも、一度見てみようということで、その中に入らせていただきました。

でも屠場に足を踏み入れて、一番最初に感じた感覚は何だったか。この中にも見学された方がいらっしゃるかもしれないんですが、私が最初に感じたのは熱気だったんですね。とっても熱かったんです。その時点で、冷たい場所じゃないかとイメージしていたものが、スコーンとどこかに行ってしまいました。そして目の前で行われている仕事を、瞬きをするのも忘れて、一生懸命見ました。700キロ、800キログラム近いし、牛舎でも牧場でも、牛を何度も見たことがありますが、丸腰で、これから牛の命をいただくという前提で見るとき、とても大きいんですね。怖ささえ覚えました。そういう中で、当たり前のことながら、私と同じ肉体を持った人々が、牛一頭一頭と対峙して、真剣勝負して、ノッキングして、放血して、皮をむくという作業をしていたんですね。その熱気は働いている方々が全身から大汗をかいて仕事をしていらっしゃる。すでにもう機械化され、ライン化されていましたけど、それでも機械を扱うのは、人の手であり人の肉体である。全身労働である。かなり重労働です。夏場などは長靴から汗があふれ出すとおっしゃるんですよ。そして大量にお湯も使う。お湯の熱気もあると思います。

 そして、牛はノッキングされた後、ノッキングというのは眉間を打撃するんです。ほとんど今、屠場では屠場用の銃を使います。そして気絶している間に頸動脈を切って、放血して、そこで絶命するわけなんですけど、ノッキングした直後に、牛は2度ぐらい体温が上がると後で聞きました。実際、牛も熱を放出しているんですね。そういう熱気にみなぎっていたんです。私は、屠場イコール死を扱う場所というイメージを持っていたんですが、そうじゃなくて、命と命の濃密なエネルギーが充満している。有機的な、命と命が本当に正面から対峙している場所、普段の日常では感じたことない空間だったんです。その見学が終わった後、私の中から素直に沸いてきた思いというのは、「ありがとうございます」。ただ、一言ありがとうございますという思いでした。家畜たちに対してもそうだし、働いている方々にも本当に、一人一人肩をたたいて、お疲れさまですと声をかけたいような、そういう衝動に駆られたんですね。感謝の気持ちであって、偏見や差別が向けられてきたなんて、本当に違うなと。心の底から思いました。

 私のように、以前漠然としたイメージを持っていた人間が、その仕事を正面から見て、肌で感じて、耳で聞いて、匂いを嗅いで、そういう体験をしたときにイメージが全く変わったと、この上に私の生はあるんだ。「生きる」はあるんだ。命をいただくって本当にこういうことなんだと実感を持った時に、おそらく、私と同じようにこの仕事を見ることができれば、多くの方がこの仕事に対する見方を変えるんじゃないかと、そんなことを思ったんです。それから、私はいつか屠場の仕事をきちんと映画として取り上げることをしたいと思ったんですね。

 それから、3年後になります。北出精肉店さんと出会いました。ある友人から聞いたんです。「大阪にすごい肉屋があるんやで」と。聞けば、そのお肉屋さんは、一見普通の町のお肉やさんなんだけど、裏手には牛舎があって、そこで子牛から飼育して、育ったらムラの中を引いて歩いて引っ張って連れて行って、そして機械化されていない小さな屠場がり、そこで、家族4人で手作業で、屠畜、解体して、皮も内蔵も枝肉も全部持ち帰ってそれを小売りするという。そういう生産直販のお肉屋さんがあるんやで。そういう話を聞きました。びっくりしました。そんなお肉屋さんが現代にあるのかと。ただ、その話を聞いたときは、その先がありまして、半年後にはその貝塚市立屠畜場は閉鎖されるんだと、そういう話でした。今、全国で180カ所ほど屠場があると言われてますけど、どんどん小さな機械化されていない屠場は閉鎖されて集約化され、大規模な機械化された工場だけが残ってきているという状況にあるんですね。その中で、貝塚の屠場も閉鎖されるんだという話でした。ですから私は、「ああ、出会うのが間に合わなかったな。遅かった」と思ったんですね。もうちょっと、早く出会っていれば映画にできたかもしれない。でも、閉鎖する前に見学会がある。今、手業で、ナイフ一本で解体する技術を現役で持っている方、ほとんど残っていらっしゃらないと言われていますけど、その手業をこのまま終わらせてしまうのは、もったいない。一度見学会を開いてほしいと、有志でお願いして、そういう会がもたれるということで、そこに、私と本橋さんも呼んでいただいた。そこで、記憶として、北出さんたちの記録として映像として回させていただけないですか、ということで屠場の仕事の見学会を映像に納めさせていただきました。見学会が終わり、東京に帰る新幹線の中で私は、もう絶対に映画にするぞ、北出さん達のことを映画にしなければならないという気持ちで満々だったんです。勝手に一人で決めていたんです。帰りの新幹線の中で企画書を作り始めまして、「ある精肉店のはなし」というタイトルもその時に考えたものなんです。

 その時に、どうして「あと半年残っている」という思いに変わったかというと、見学会を終えたときにこんな話をしたんです。新司さんが長男で店主。次男の昭さん、このお二人が中心になって屠場の仕事をされてきたんですけど、新司さん、昭さんにすばらしい手業ですねと。本当にナイフ一本であっと言う間に解体していくんですね。その技術について、素晴らしいですねという話が出たときに、お二人がきょとんとした顔をされて、「いやいや、何にも特別のことではありません。これは、僕たちにとって小学生のときから父親の姿を見て倣い覚えたことで、やっていれば誰でもできるようなものなんです。」とさらっとおっしゃったんですね。後で屠場で働いている方に聞いたら、「いや、そんな簡単なものではありませんよ」ということを伺ったんですが、お二人はそうおっしゃるんです。「僕たちにとっては、これは何ら特別なことではない。誰かから賞賛されるようなものでも蔑まれるものでもない。普通の仕事と思ってやっています。みなさんが仕事を一生懸命やっておられることと、全く変わらず普通にやっています。日常の一部です」とおっしゃったんです。その時に私は、屠場の仕事を映画にしたいとずっと思ってましたが、特別な仕事とか、特別の場所、特別な人がするものということではなく、北出さん達にとっての日常なんだと、生きるため、食べるためにやってきた仕事が、生きることの中の一部なんだという所からだったら、始めてこの屠場の仕事を映像にすることができるんじゃないか、そんなことを思ったんですね。

 そこから、私はぜひ映画にしたいということで通い始めました。でも、屠場の仕事を私が見学するまで一度も見たことがなかったということ、それは、映像化されるということ、あるいはマスコミなどでも取り上げることがタブーとされてきたので、まず、屠場の仕事。生き物の死の瞬間を映像で捉えて、それを公に出すということ自体が、タブーとされているものです。そういうものを、撮ること。あるいはそういう仕事をしている方たちに対してカメラを向ける。被差別部落の地域のご出身の方が多いわけで、その方達に対して、そのことを前提としてカメラを向けるということも、非常に難しい、繊細なことがあるということは、とても大きなハードルがあるということでした。

 私は映画にすると、勝手に一人で決めて通い始めていたわけですが、でもまず、映画にするには、そこに映って下さる方。北出さんの家族はもちろんのこと、地域の方達にもご了承を得なければならない。了承を得ないところからは、決してスタートできないと思ったわけです。まずは、その了解をいただくために、通い始めました。そして、話し合いを何度もする中で、「僕たちは、カメラの前に立つことはいい。ずっと解放運動を通して部落差別と闘ってきた。だからいい。ただ、自分たちがカメラの前に立つことで、子どもや孫、あるいは、町内の人たち、いろんな人たちに迷惑がかかる。あるいは、それがさらに差別につながるとなったらどうなのか。そういう可能性は充分にある。作るあなたにどれだけの覚悟があるんですか。自分たちは非常に覚悟がいる。私たちが顔を出し、名前を出すということが、どれだけのことかわかりますか」ということを言われました。それを言われる前に、私は映画として、こういう映画を作りたいということをお伝えしてきたんです。北出さん達の日常を撮りたいんです。日常というのはいろんなつながりが映り込みます。そして、私が北出さん達を理解するために必要なことを撮っていきたいと思っています。それは、誰かしかとらないとか、これは撮りませんとかいうことではなくて、そこには、いろんな事が、自然と映り込むと思います。過去のことも、地域とのつながりも、地域の行事も、いろんなことを写したいんですということを伝えました。もう一つは、モザイクをかけたり、匿名にしたりということは一切考えてないです。私は、その人がその人であること。その地域がその地域であることをきちっと肯定した上で、肯定したものを出したいんです。ということをお伝えしたんです。それに対する話し合いでした。今、特にテレビは、ドキュメンタリー、報道などでは、写真や映像はほとんどモザイクですね。私は、どうしてこうなっちゃたんだろうと、本当に思うんです。そこに映っている方のプライバシーや安全を確保するためにモザイクをかけなければならないという状況があるのは確かですし、それはしなければならない大切なことなんですけど、今、ほとんど行われているモザイクは、あそこまでどうしてたくさんモザイクをかけなければならないのか。本人以外はみんなモザイクなのは、そこに映っている方達の了承を得ると言うことを省くためであることがほとんどだと思います。その承諾を得るということが一番手間がかかって、一番気遣いが必要なことなんですね。それをみんなショートカットしている行為なんです。私は、モザイクって変でしょう。そこに映っている人を映っていない、存在していないとしているのと同じであると。だから私はモザイクかけたくないんです。ということを熱く語ったんですね。でも僕たちが顔を出すこと、名前を出すことって簡単じゃないんだよ、あなたどこまで覚悟あるの?責任取れますか?と言われました。

 私は、その時に正直に言うと返す言葉がなかったんです。簡単に何も言えないなと。それから寝られない日々が続きました。ああ、やっぱりダメなのかな。映画にするのは難しいかもしれないと。ただその時に、考えても考えても、絶対あきらめられないと思ったんですね。これは、私だけの問題じゃない。これは映画にするべきだと。どうして今思えばあんなに熱く、強く思ったのか自分でも不思議なんですが。でも、私が最初に屠場に行ったときの自分の世界が変わったこと。あるいは、北出さんの家族や東町の人たちと一緒にいて感じている暖かさだったり、彼らの真摯に生きている姿というものがきちっと映像化できたら、絶対いいものになる。そして、みなさんがずっと闘ってきたことにお役に立てるものが作れると思います。というか作りますと、啖呵を切ったんですね。言うしかなかったということもありましたが。でも、それを言ったことによって、何が一番重要だったかというと、そういうものを私自身が作るんだと、まず自分自身が信じ切ること。そこに立ったということだったと思います。

 余りにも、私がしつこくて、あきらめる風がなくて、何度も何度も通ってくる姿を見て、地域の方達、根負けしたんだと思います。まあ、しょうがない、やってみますかと。まだ、撮影は始めてないし、やってみましょうとおっしゃっていただいたんですね。そして、もし何かあったら、逃げずにお互い向き合って乗り越えましょうと。何かあったら乗り越えることだけを約束し合いましょうというところで、映画制作が始まりました。

 そんなことで、1年半、北出精肉店さんの歩いて5分の所に部屋を借りて、ものすごく重い責任を背負ったということなので、私が考えられるできる限りの全てのことをしようということで、撮影を続けていったんですね。撮影のないときも、基本は貝塚に拠点を置いて毎日のように北出さんの所に通わせていただきました。そして作り上げたのが1時間48分の映画です。

 当初の目的である、屠場の仕事をきちっと見てもらうということでしたから、ノッキングも含めて屠場の作業が丁寧にその本編の中には収録されています。ものすごく考え抜いて編集をしたんですけど、でも実際それが、公となって、映画として一人歩きして、どんな風に見られるかということは、開けてみなければわからないということで、私も、また私以上に北出さんや地域の方達は本当に緊張されていたと思います。でも、おかげさまで、この1年とちょっと、いろんないい反響をいただきまして、文化庁の大賞もいただいて、順調に上映会をさせていただいているという状況です。

 すっかり前置きが長くなりました。ダイジェスト版もずっと試行錯誤して編集しています。本編を見ていただければ何よりなんですが、今回は、少々学習用として作ったけっこう説明が多い編集バージョンになっています。25分ですがごらんください。

 

−DVD上映−

 

 

 ありがとうございます。言い訳ですが映画本編はナレーションの分量も少ない映画なんですが、ダイジェスト版で基本的な情報を知っていただきたいということで、ほとんど私の声のナレーションがついてしまったというダイジェスト版になってしまっていますが。この映画を上映する中で、まず、映画を作っている2年間は、綱渡りというよりも糸の上1本を歩いているような、ずっとそんな緊張感がありました。北出さんたちも東町の人たちも、とっても暖かくて情が深くて、その中で全面的な協力をいただきながら、良好な関係の中で作っていったわけなんですが、でも余りにも映画にしようとしていることの、背景やテーマが大きいために、私がちょっとでも何か心ないことをしてしまったら、その糸はぷつんと切れてしまうんではないか、信頼関係も簡単に崩れてしまうんではないかという、そういう緊張感が2年間、ずっとありました。それが今、なくなったわけではないですけど、今はちょっと映画をいろんな方に見ていただくことによって、少し肩の荷が軽くなったかと思います。

 その中で、ずっと差別というものを一体どう映像化できるだろうかということは、ものすごく大きな私の中の課題でした。差別って可視化するのが非常に難しい。まさに差別をしている、されている現場というものをカメラが出くわして映像にするということも非常に難しい。でも、撮影を悩みながらしていく中で、いや、そうじゃないんじゃないか。差別を撮ることではなくて、私は私の目の前にいる人を理解したいとして、その映像を積み重ねていくことであり、私の中から差別というものが何なのか、そうではないというものの、視点でものを見ていく。それを映像化するということが一番なんじゃないか。それでいいんじゃないか。というふうに思えるようになって、最後はそういう中で映画作りを完成させていきました。

 映像の一番の骨というのは、どの場所でどの高さでものを見るのかということが、すなわち映像表現の大きなことと言えると思います。そういう意味で、私は海を挟んだこちら側の本州から祝島を見るのではなくて、祝島の中に入って見える世界、暮らし。そして海を挟んで、作られようとしている対岸の原発というものを見ようと。そして、今回は北出さん達の日常、東町の中に入らせていただいて、そこに流れてきた時間や、そこにある人間関係、そういったものをこの目で見させていただく。そこから見えてくる映像。その中に問題も含まれるのだろうということで、映画を作らせていただきました。映画を作って、本当に嬉しい感想をいろいろ寄せられる中で、多いのは、映画を見るまでは、いろいろな話を聞いていて、お肉が食べられなくなるんじゃないかと。トラウマになってお肉を食べられなくなるかもしれないという覚悟で来たのですが、映画を見ているうちに、なんだかとてもお腹がすいてきて、お肉が食べたくなって、帰りに焼き肉屋に寄りました。ステーキ肉を買って帰りましたという、そういう感想が多くあったんですね。それは、私とてもうれしいことなんです。

 屠場の仕事って最初見たら必ず衝撃を受けると思います。で、受けていただかないと困るんです。それだけ大きな事だと思うんです。一つの命を絶つと言うことは。だから、衝撃は受けていただきたい。だけど、衝撃だけで終わらない。その先のお肉になる技術や、そこに対する思いというものをどこまで見ていただけるかというのが勝負だと思って来ましたので、お肉食べたくなりましたという感想は非常にうれしいんですが、それはどうしてかなと、私なりに考えたときに、その生産者の顔が見える、それに携わっている人の姿や、思いが見えるということが、映画の中にあるからじゃないかと思うんです。それは、映画を見て下さった方と、ある意味スクリーンを通してですが、生産者、今回で言えば北出さん達との中で、信頼関係のようなものができて、こんな人で、こんな思いで、お肉を扱っているんだというところで見ていただくと、あ、おいしそう、というふうに見ていただけるのかなと思ったんですね。そういう意味で、つながりが見えるということなのではないかと思います。

 今、肉のパックを一つとって、そのスライス肉1枚から、そのお肉がまだ子牛だった時から姿、あるいはそれを育てている人の姿、屠畜解体している人の姿、精肉している人、そして、パック詰めにしている人の姿まで想像できるだろうか。それが全部つながっていることなんだというふうな実感ができるだろうか、と思うんです。そういう意味で、そのつながりが、どれも断片的になってきている今の時代というのは、非常に難しい時代に入ってきているなと。特に、教育、子どもたちにそれを伝えていくというのは非常に難しい時代になってきたなと思うんですね。そういう意味で、映像の中でつながりを取り戻していくというような事も、私の中で、とても大きなテーマになっているような気がします。

 東京にある学芸大学で上映したときに、今、大学や中学、高校などでも上映会をさせていただくことがとても多くなってきたんですが、大学生が見終わった後、「この映画を見て、同和問題を扱っている。だから、そういうことをいろいろ理解できるかと思って期待して来たんだけど、映画はひたすら日常が淡々と流れていて、肩すかしを食らった気分です。」と言われたんですね。私はその感想を聞いて「やった!」と思ったんです。そうそう、それは私の目的ですと。これを見たら同和問題がどんなことなのか、差別というのがどういうものなのか、差別というものの輪郭がわかると思って来た方、あるいは「祝の島」でも上関原発問題がこんなものなんだとわかって来る方にも。私は最初から、この映画を作るときも啓発映画を作る気はありませんということを、地域の方にも北出さんにもお伝えしていたんです。啓発というのは、言葉の意味を辞書などで見ると、教えるとか、答えに導くとかそういう意味になるかと思うんですね。でも私は映画でそれをするつもりは全くありません。何かの答えに導くため。何か私が知っていて、それを教えるというところで、表現できるということは、私にはないんです。というか、答えというものは、あくまでもその人が自分自身で見つけるものだと。私なりの答えはあります。でも、それは私の答えであって、あなたの答えとは違うかもしれない。正しいものとか、こうありたい、こうあらねばならないということは、人間社会の中で、良識だったり、ここは押さえなければということは確かにあります。あるけれども、それが本当に自分としてそうなんだと思えるかどうかは、人から与えられるものではないと思うんです。そして、それは映画が与えるものでもないと、私は思っています。

 「差別はいけないよ」と言うことはできると思います。それを映画の中で、差別は、こんなことがありました。これだけ人を苦しめることです。傷つけることです。だから差別はしてはいけませんと、いうことは表現できると思います。でもそれは、頭の理解であるのではないか。人から与えられた情報にすぎないのではないか。その、知るということ。そうなんだと思うことは大事だけれど、そこにプラス、何が必要か。これは私がずっと考え続けていることなんですけど、それは、その人その人が頭で理解することに合わせて、心が納得すること、腑に落ちること、「ああ、そうなんだ」と実感することなのではないかと。その実感をするために必要なことというのが、五感を通して出会うということではないかなと、私は思うようになりました。

 ルポライターの鎌田慧さんに、この映画を応援していただきまして、上映会のあとで、対談をさせていただいたんですね。その時に鎌田さんがこうおっしゃいました。「人間、おぎゃあと生まれてきたときは、まっさらな、純粋無垢な姿で生まれてくる。でもそこから、成長していく中で、あるいは社会と関わりを持つ中で、様々な種が蒔かれる。そこにおそらく、差別や偏見という種も蒔かれるのではないか。知らず知らずのうちに。そして、他の芽と一緒に、差別や偏見の芽も生長していく。今度は、差別や偏見の芽を自分の知識、知力によって、意識して取り除こうと思わなければ、その芽は取り除くことはできない」とおっしゃいました。私は本当にそうだな、と思ったんです。こういうお話をして、それが文章化されて雑誌や新聞に載せていただくことも多くなったんですね。つい最近の話なんですが、私が屠場に行く前に思い描いていた無機質で、重くて暗くて悲壮感が漂うみたいなことをそのまま文章化したら、ちょっと偏ったイメージが強調されすぎなんではないですか、それは差別につながるので、差別意識があるというよりも、知らなかったということなんじゃないですか、と、おっしゃいました。でも私は、知らないということが差別の一面だということを、つくづく思いましたし、私が実際、自覚なき差別を持っていた、あの、漠然とした何となくのイメージを持っていた時点で、そこには差別的なものが含まれていただろうというふうに思うんですね。そういう意味で、知らないということが、どれだけのことか。知るということが、どれだけ大切なことかというのを実感しています。

 でもやはり、それにもう一つ足したいと思うんです。「五感と出会う」ということ。頭で理解するということと合わせて、肉体を通して出会うということ。私が一番最初に屠場に入って感じた感覚は、肌から感じた熱気でした。あれは、私自身が屠場に行かないと決して手に入れることのできなかった感覚だと思います。ああ、命あるものには、熱が宿るのだと。ですから、水平社宣言の最後の一文に「熱あれ」という、あの言葉がとても私の中につながってきたんですね。五感を通して出会うということを言いたいし、私自身がそういう出会いを重ねて行く中で、自分の中にある差別や偏見の種というのは、なくしきることは絶対にできないと思います。必ずそれは有り続ける。でもその、芽があるということにその都度気付き、自覚するということ。それがすごく重要だなと思います。

 そして、最後にもう一つ。私はこの映画を通して、全国で上映会を続けていますけど、たいがい、どの上映会にも、町のお肉屋さんや屠場で働いていますという方が見に来て下さるんですね。その方達が声をかけてくれるんです。とてもそれは嬉しいんですけど、その中で、私は何度も同じような話をうかがいました。それは、自分が屠場で働いているということは、誰にも気安く話せることではありません。なかなか言いづらいし、言っても嫌な思いをすることが多いから言いません。あるいは、自分が屠場で働いているということを、いまだに家族にも言っていません。というような方もいらっしゃいました。そういう中で、いろんな場面で、自分が屠場で働いているということを伝えたときに、相手が、大抵同じ反応をされるんです。それはどういうことかというと、「屠場で働いているんですか。大変ですね。かわいそうじゃないんですか。残酷ですよね」と言われると。「残酷」と言われると、とても嫌な気持ちになるんです。もう話したくないと。それに対して何か言いたいんだけど、言う言葉がないんです。と、そういう話をいろんな場所で、同じ話を伺ったんですね。おそらく、「残酷ですよね」と言ってしまった方は、悪気はないんだと思うんです。私のように、私が屠場を見る前に、思い描いているイメージの中で、そのイメージにつながって出てくる言葉が、「残酷」という言葉なんだと思うんです。だから、その言葉で、どれだけ相手が嫌な思いをしているのかということも、多分わかっていらっしゃらないだろうと思うんです。でも、その言葉が出たところに、ものすごく一つ欠けているものがあると思うのは、それは、普段、自分が「食べている」というその行為と、屠場の仕事が繋がっているのだという実感ではないかなと思います。仮に、残酷とするならば、何が一番残酷かって、それは、「食べること」でしょ、と、私は言いたいです。だって、食べるためにする仕事ですから。私たちが。そして、食べるという行為は、ここにいる全ての人が一緒に、同じくしている行為である。だから残酷と言うならば、必ずその言葉は自分に返ってくる言葉として、発したい。他人事、自分とは関係のない世界、見なくてもいい世界、自分とは繋がっていない、そういう所から出てくる言葉であり、意識ではないかと思うんです。自分と繋がっている。そして繋がっているということを五感を通して出会うということ。それが大切なんじゃないかな、と、そんなことを思っています。

 まだまだしばらく、この映画は私が作らせていただいて、預かりものとして、大切に上映会活動を続けています。DVD化する予定は今のところありませんので、上映会に来ていただいてみなさんに見ていただくという形で、上映会をしていきますので、もしみなさまの所でも上映会をしていただけるようでしたら、お声をかけていただけたらと思います。ありがとうございました。

 

 

 

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