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第53回人権交流京都市研究集会
上杉 聰
(元大阪市立大学教授,じんけんSCHOLA共同代表)
司会進行 木下 松二(部落解放同盟京都市協議会)
記 録 筒井 浩平(部落解放同盟京都市協議会)
分科会責任者 北村 要(部落解放同盟京都市協議会)
「解放」の文字がないのに解放令?
こんにちは,ご紹介いただきました上杉です。
今年は、水平社が創立して100年です。その3月3日を前にして水平社宣言の話をさせていただくということはたいへん光栄です。水平社がなぜ生まれる必要があったのかという話からまずさせていただこうと思います。その前に1871(明治4)年8月28日「穢多・非人等の称を排せられ候条,自今身分・職業とも平民同様たるべき事」穢多・非人等の名称と制度が廃止され今から身分と職業とも平民同様であるという布告がだされました。ところがこれには「解放」という言葉がでてないことにお気づきでしょうか。しかし,なぜこれを「解放令」と呼ぶようになったのかといえば水平社の創立にかかわった佐野学という人がそのような呼び方をしたことから,これが「解放令」だというふうに言われるようになり私たちもその影響を受けています。
この布告に「解放」の文字がないため多くの差別事件がおこりました。
ある村では,庄屋をしていた家に葬式があり、これまで「穢多」の人びとは,その家の土間(玄関の土の上)に膝をついて悔やみを述べるだけでしたが、このたび庄屋の家の不幸に「穢多」の人たちが相談して「我々はもう昔の身分から足を洗い,平民となって同じ人間の仲間入りをしたのだから,遠慮することはない。」と他の村民と同様に畳の上へ座り込んだ。居合わせた村民は眉をひそめてイヤな顔をして横を向いていた。やがて酒がふるわれる時刻となり村民の前には徳利と盃が配られたが元「穢多」の人びとの前には何もない。不審に思っているところへ,その家の主人が出てきて,一同へ丁寧なあいさつを行った。そして,下男に子どもの便器をよく洗って持ってくるよう命じ,その便器へなみなみと酒をつがせ,それを元「穢多」の人々へ突きだして主人は「お前たちも足を洗えば,汚くないように,便器も洗えば,汚くないはず」と言った。それを見ていた村民たちは手をたたいて,主人の「機転」を褒めたたえたそうです,「便器の教訓」とよばれるこの話はほぼ全国化していたようです。「政治の仕組みが変わり『穢多』であった人々も平民になったのは仕方ないが、あいつらは洗った便器と同じだ。だから対等に扱う必要はない。これまで通りこっそりと仲間外れにすればいいんだ。布告には差別をしてはいけないとは書いてないからね」といった思いがあったことでしょう。
また,1902(明治35)年に広島県で部落の青年が部落出身であることを隠して女性と結婚したことを広島控訴院は詐欺と認定したという事件がおこりました。この裁判では宗門人別帳と壬申戸籍が使われ部落出身と断定し判決がだされました。「壬申戸籍」は1872(明治5)年が壬申(みずのえさる)の干支にあたるため壬申戸籍と呼ばれ江戸時代の身分が書かれていました。
さらに,これに習った判決が「高松結婚差別裁判」です。これは、岡山から連絡船で香川県に帰っていく途中に部落の青年が女性と知り合って恋仲になり同棲をすることになったのです。これを警察が親の報告を受けて誘拐罪として告訴しました。そもそも誘拐罪とは何かといえば人を騙して連れて行き監禁すれば誘拐になります。つまり、彼は自分が部落民であるということを言わないで彼女を騙して連れて同棲したことが監禁にあたるから誘拐であるとして1年2か月の判決をくらったわけです。明治や大正という時代ですから具体的な解放の政策というものがなにもおこなわれていなかったのです。したがって、部落ということで差別されてきた人々にとって水平社を立ち上げなければならないということになるわけです。
米騒動をきっかけにして
1918年の米騒動によって原内閣が誕生します。原首相は選挙権をすべての男性に与えることや労働環境を整える法律を作ります。あるいは農業組合をつくったり女性の権利なんかも含めて考えましょうという取り組みをはじめます。これが大正デモクラシーというもので,この米騒動以降日本が少し民主的になるのは彼のおかげだといわれています。その原敬が内閣総理大臣になった時に京都の明石民蔵さん(柳原銀行をつくった人物)が中心になって「部落に対する改善費を出せ,差別の政策をやめろ,特に学校教育でそういうことをやめろ。」という要請を出しました。これにより部落に対する改善は米騒動以降劇的に変化しました。
その気流に乗って水平社もできたわけですが部落の人たちは何もしなかったのかといえばそんなことはありません。当時の部落の人たちの人口は全国民の約2%です。「自分に対する差別をやめてくれと言っても100人中98人が“ウルセエ”」と無視されればそれまでのことだったのです。そういう力関係の中に部落の人たちはおかれていました。法律的な後ろ盾もなく、差別はヤリ放題だったわけです。50年間も我慢に我慢をしてきた状況から自分たちの力で部落問題を解決するために立ち上がらなくてはならいと考えるようになったわけです。
水平社創立趣意書で西光万吉は「人間はいたわるものじゃなく尊敬するべきものだ。」と話しかけ「吾々の解放は吾々自身の行動であることに気づかねばならない。」として水平社創立の呼びかけをしています。そして「全国各地にちらばっている被差別部落の人たちよ。長い間いじめられてきた兄弟よ。これまで50年のあいださまざまな方法と多くの人々によってなされた私たちのための運動はなんのありがたい効果ももたらしませんでした。それはそのすべてが,私たち自身が、また他の人びとが,つねに人間を侮辱してきた罰なのです。だから50年間何も進まなかった。これまでなされた人間を軽んじ憐れむような運動は逆に多くの被差別部落の兄弟の思いを堕落させてきたのです。」つまり前進しようとする気持ちを萎えさせてきた。「このさい私たちの中から、人間を尊敬することによって私たち自身を解放しようとする者がつながり,運動を起こすことにしたのは当然のことです。」これが水平社宣言のまず冒頭の最も重要な個所です。このあと次の段落に「私たちが『エタ』とよばれていたことを誇る時代がやってきたのです。」そして最後に「人の世に熱あれ!人間に光あれ!」それは人を尊敬することからはじまるというのがこの文章の流れじゃないですか。世の中に対しても非常に大きい勇気を与えるものですね
「尊敬すべき」という言葉に教えられた
有馬頼寧という人がいます。競馬好きな人はご存じでしょう。有馬記念のあの有馬です。人権問題をこの当時から積極的にとりあげた人です。その彼が「人間は尊敬すべきものだと」という水平社の主張に私は教えられたというのです。そして、私たちの今まで唱えてきた愛には尊敬を伴って居なかったように思う。水平社の人たちが「我々は同情は嫌いだ」と言われた。私たちの主張する愛が同情とみられたのは,そこに尊敬ということを忘れていたためだと思う。私たちは決して恩恵的同情や憐憫的愛をもって臨む考えは初めから持ってはいけない。けれども,何か高いところから低い者を見ているふうに思われたのは,私たちの考え方の足らなかった点もあろうが,また私の主張が誤っていたためであろうと思う。
有馬頼寧と言う人は,その当時の人権問題を考える一般社会の中心のメンバーです。その人がこの水平社宣言の「尊敬すべきだ」という言葉に教えられたというのですね。
※(ビデオ視聴)
「差別する」反対語に何を選びますか
日頃差別が行われているわけです。その行動の反対は差別しないことです。差別しない行動とは相手を敬うことと言えます。つまり尊敬するということとなり尊敬することによって平等になろうとしているわけです。小・中学生に水平社宣言の中心の思想はなにかをどうやってわかってもらえのるかと思って大学の授業をそのまま大阪の学校の先生方に提案しました。子どもたちはすごいですよ。すぐわかるんですよ。例えば友達と握手をする。仲良くする。優しくする。その人を受け止める。思いやりを持つ。そういう言葉がどんどん出てくるわけですよ。それを白版に一つひとつ書いていくと子どもたちの文字であふれました。もちろん尊敬という言葉もそこにはあります。それをきっかけにして水平社の授業がものすごく活発におこなわれるようになるんです。
日本国憲法に部落問題が盛り込まれた
1946(昭和21)年7月29日帝国憲法改正案委員小委員会で「ソーシャル・ステータス」を「社会的地位」と訳せばどうかと言う意見に対して当時の法制局次長,佐藤達夫さんが「生まれながらと申しますか,何か容易に変えられない事柄に依って差別をおこなわないということにしたい。身分という言葉が良いか悪いかは別ですが,社会的地位というよりも社会的身分と言った方が、そう云う気分が出はせぬかと云うことでこの言葉を選びました。」と言っているのです。私は日本国憲法の解説の本を30冊くらい読みましたが一人を除いて社会的身分は部落の意味であるというふうに書いてありました。
また、「差別されない」という言葉が使われていますがその中に差別を禁止するという含みも入っています。これにより賤民廃止令以降黙認されてきた差別的慣習の「禁止」が閣議制定されました。この法律が「部落差別を禁止」する法律ということになったのです。
これが水平社宣言から日本国憲法につながるところです。こういうことを実はここにでてきているということを今日はお伝えしたくてやってきました。
日本国憲法を見るとそこに水平社宣言の考え方が大きく影響しているということが理解できますし,だから日本国憲法を守らなければいけません。
フロアーから
Hさん 今の赤の入った資料はどこかで検索したら見れるもんでしょうか。教えてください。
Yさん 私の地域は,とても融和的な官製主導の地域でした。全国ではじめて公設の託児所が設置され部落の改善事業は早くから取り組まれてきました。それが米騒動をきっかけに行われてきたということがよく理解できました。また,差別が当たり前だった時代に自分が部落民であることを隠さないで差別に立ち向かっていった先人の生き方にはとてもすばらしいことだと思います。しかし,そういう人間を育てていくことが今なおざりにされているように思います。もう一度部落差別とは何かを考え,それに対して答えをだしていくときではないかと思っています。
上杉 ありがとうございました。実は先ほどの差別する反対語とはなんですかと聞いたら握手することとか優しくすることなどがでてきました。すごく大事なことであると強調しましたが,尊敬の気持ちが入ってなければまやかしになるということをいいました。有馬頼寧は,部落の人たちを愛そうとしましたがそこに尊敬の言葉が一つ加わるかどうかということで決定的にかわるということを学んだと言っていると思うのです。尊敬という言葉がなければそれはおかしいということを水平社は明確に指摘をしました。人と仲良くするためには相手のいいところも見なきゃいけないということを申し上げましたけれども,尊敬と言う側面を持たない限り平等にはならないというふうに思っているということです。そういうものとして水平社宣言を知らせていきたいと思います。
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