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 講演録要旨

全体集会記念ライブトーク〜性的マイノリティが模索した家族のかたち〜

ベロ亭  岩国英子・米谷恵子

 

恵子:今日は、44回目という長い、分厚い歴史のあるこの人権交流集会にお招きいただきありがとうございます。奇しくも私たち二人の上の娘が産まれた1970年から、こちらの集会がスタートしたということは、すごく不思議なご縁だなと思います。

【英子が「女装」して登場。ニコニコしつつ無言で舞台を一週する】

恵子:あら?どなた?ひでこちゃんなの?どうなってるのかな。

NHKEテレ〈レズビアンマザー・家族の自死を見つめて〉ダイジェスト版上映 15分】

 

英子:先ほどの私の姿と、今の姿で性別が違って見えるでしょうか。私は同じ人間のつもりなんですが、普段の私はしょっちゅう男性に間違えられます。銭湯でも、トイレでも、叱られたり、じろじろ見られたりということで、その度に傷になっています。そういう意味では、私の性自認は女性であり、パートナーの彼女が好きというレズビアンです。性的マイノリティと一言で言っても多様ですが、今、大きく4つに分けてLGBTと表現されています。私のように女性が好きな女性は、L(レズビアン)。あと男性が好きな男性はG(ゲイ)ですね。女性で、女も男も好き。男性で女も男も好きというのを、B(バイセクシャル)と言うんですけど、ここの、LGBまでは、誰が好きか、性的指向ですね。あとTはトランスジェンダー。

恵子:自分自身の性の境界線がないような。それを「性同一性障害」ということで診断が降りるような。私たちは今日はあくまでも、レズビアンマザーとしてお話をしたいと思っています。

英子:次に性を考える4つの指標ということで、「外見、身体、心(精神)、相手」というのをあげてみました。それぞれ女・男という振り分けがされますが、そもそもは、いずれも境目のないグラデーションです。こうでなければという型に自分を押し込めるのでなく、自由に自分で決めていいものだと、私自身そのことに気付いて、とても自然で楽になったという経験があります。

恵子:パワーポイントの映像で、少しベロ亭の歴史についてお話しようと思います。19837月に創刊されたLEEという雑誌に私たちの家族が紹介されました。この時は、カミングアウトする以前でしたが「新しい家族の形」として取り上げられています。

英子:二人が出会って、一緒に子育てしようというときに、何を一番大事にしたかというと、お互いの子どもを自分の子、相手の子というふうに所有しないことでした。

恵子:一般的に自分が産んだことを否定はしませんが、それを最小限に絞ってどこまで持って行けるかという中での共同性、あるがままをお互いに。というと、かっこいいんですが、絶え間ない「語り合い」、ぶつかり合い、喧嘩。

英子:単純に子連れ再婚のステップファミリーという意識ではなく、本当にそれぞれの子どもたちもキョウダイというように育ってきたと思います。それから、私たちの住居兼仕事場を「ベロ亭」と称していますが、その由来について。

英子:出会いの前から私が個人誌を発行していまして、そのタイトルが「ベロ」。サブタイトルに「個人誌に終わらせたくない個人誌」とあります。子どもたちが寝静まってからガリ版刷りでつくっていました。

恵子:この「ベロ」の巻頭言に私は、生の彼女に会う前に惚れました。「私の初めての、最も消極的なやり方としてのこのベロの発刊です」というくだりです。社会運動から個人的な生活に戻っていく精神的な時代になってきた頃です。

英子:当時「蟻地獄」にはまっていたのが、そこから這い出して、生活を初めて、そしてやはり、個人誌で終わらせたくないということで、3号からは二人で作って、ベロ亭通信という形になりました。

恵子:これは、「由緒」あるベロ亭マークです。京都あたりでも、家紋というのが残ってると思うんですが、子どもたちが、学校で家紋を掘るという図工の時間というのがあって。

 

英子:うちの家紋でどれ?と聞かれて、これだよ、と言ったら。「あ、これなん」と言って。宿題をしていました。で、ベロ亭キャラバン。私がつくった焼き物と、彼女のつくった詩、

その他いろんなイベントを計画しながら北海道から沖縄まで、全国600カ所のキャラバンをして、生計を立てながら社会活動をしてきました。

恵子:よりによって、焼き物なんですよ。割れ物で、重い。生まれ変わっては、綿を、雲を運ぶ仕事ならいい、と言いながら手伝ってくれた人がいましたけど、でも、子どもたちも連れて行くときに3人だったときも2人だったときもあり、いろんな時代がありましたが、私は詩の朗読をしただけではありませんよ。相手の都合に合わせて、スケジュールを組んだり、たどり着くまでのナビゲーション、ハイエースという車で行きますので、駐車する条件だったり、そういった細かい段取りがちゃんとできていないと、1日で次々と移動していくキャラバンなので。

英子:焼き物を3ヶ月くらいかけて、車いっぱいになるまで作って、時には1000点くらい車に詰め込んで、そして、3週間から1ヶ月地方を決めて回ってました。

恵子:女たちのグループが、この時代草の根であったんですね。そういうところで、女から女へ。お互いアンテナを立て、キャッチボールしながら。母子家庭に支給される児童扶養手当の改悪というのが1984年に浮上して、それに関しても全国の女たちが連帯してくい止めたということがあります。

英子:そうした活動の中で、周りの人たちに対して私たちの関係をどのように表現していたかというと。言葉でカミングアウトしなくても、分かる人にはわかるという方法。

恵子:それは、問わず語りにして、既成事実をいろんな形で作っていくことで、ご近所さんから全国に及んでいくという形で、結果的に蓄積されていった。

英子:実は、1991年5月17日にWHOの精神疾患のリストから同性愛が外されることで、同性愛の権利も「人権」と位置づけられるようになったんです。逆に言うとそれまでは「精神疾患」として扱われていて、私が彼女と一緒に暮らしたいと兄弟に伝えたときには「すぐに精神病院に入ってくれ」と言われました。実際に保安処分にかけられたり、病院から逃げ出した人の話を聞いたこともありますが、私も入れられそうになったんですね。だから、毎年517日を記念日としていろんな取組みが世界で行われています。「国際反ホモフォビア&反トランスフォビアの日」の略でIdaho(アイダホ)といって、私と恵子も福井の駅前で街宣行動をしています。テレビに出たことで、生まれてから1度も誰にも自分のことを語れなかった当事者たちから、何度も話しかけられました。地元でも東京など都会の展覧会の場でも。そういう時、私は萎縮している人のつらさを受け止めつつ、若い人がカミングアウトすることをどんどん応援していきたいと思っています。教育現場でも、先生方は学校でクラスには必ず1人はいる。確立でいうと3人くらいいるという思いで、子どもたちの気持ちを感じ取ってほしい。「性同一性障害(GID)」だけが前面に出ることで、性的マイノリティの問題がそこに集約するような現実になっていますが、先ほども言ったように、LGBの部分にも目を向けて、受け止める準備があることを伝えてほしいです。自殺率で言うと、ゲイは普通の人の6倍、レズビアンが3倍という統計があります。

恵子:それは、女性はむしろ魂を殺されていて、結婚という鞘に収まってしまって、本当に見えない存在になっているということです。カミングアウトは、閉ざす扉(クローゼット)から出るというのがもともとの意味ですが。

英子:資料には同性婚を認めている国の一覧表をつけています。ただ私たちの立場は、あくまでも婚姻制度にのっとったという形ではなくて、カップルとして、パートナーシップとしての権利を日本も認めるべきだということ。まだ夫婦別姓さえ通らないこの国でなかなか難しいと思うんですが、現在は全くお互いの、相続や保健やいろんな社会的な権利がないので。

恵子:相方や子どもが入院した時などでも「家族ですから」と言い切って乗り切ってきたことはあるんですけど、本当に乗り切れないときが来たらどうしようかということがありますね。

英子:カミングアウトというのは、ただ言葉の問題ではなく、生命体としての私、命、魂、全部がその行為につながっていて、私自身、番組に出演してそこをオープンにすることで、びっくりするくらい作品の表現も出てくるし、頭もすっきりするという感覚を味わいました。

恵子:お互いにコミュニケーションがより大きく深くできる世の中になっていけば、ということにつながっていくと思いうんですが、最後に、私たちベロ亭という家族が遭遇した娘ののえの自死とそれにどう向き合うかということを、5分ほどでダイジェストにしたものですけどご覧ください。

【ダイジェスト版〜映像】

 

恵子:この番組全体を企画してくださった方の言葉ですけど、こんなに高い二つのハードルをだしちゃったんだよね、と。自死というのは、残された家族であれ、親しい友達であれ、恋人であれある意味PTSD的な心的外傷。何で自分が今生きているのかという、そういう意味合いにおいてシビアな、それをある研究では強制収容所の生還者と同じくらいのストレスを抱えているとも言われています。で、本当にそうだなと、この4年と3ヶ月思っています。だけども、その自責の念というのは一体何なのかということを、本当にこの世の中、もう一度向き合わなかったら、何で、東電が自責の念を持たないんですか、何で自死遺族が自責の念だけ持たされるんですか。私はそこを聞きたいです。無力感というのはずっとあると思います。悲しみもずっと変わらずあると思います。でも、私はのえと共に生きていきます。

英子:私は65歳なんですけど、いろんな意味で人生が円熟してきたのかなと自分で思うんですけど、その豊かさというのは自分が育てた5人を抜きにして考えられないんですね。

恵子:皆さん、聞いていただいてありがとうございます。最後に詩を読んで締めていきたいと思います。これはあるレズビアンの友人が書いてくれたイラストですけど、珍しく私がイラストに言葉をつけたんです。

「一つの大きな思い出になっていく」

 

【詩の朗読】 

 

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