トップ

基調

講演録 1分科会 2分科会 3分科会 4分科会 5分科会

第50回人権交流京都市研究集会

第5分科会

   「部落の歴史」

―新たな視点での部落史―

 

 

変わる米騒動像―近年の歴史学研究の成果と京都

 

 

 

「米騒動研究の現段階と課題」

        講 師: 杉本 弘幸さん

            (京都工芸繊維大学・佛教大学・立命館大学・神戸女学院大学講師)

 

 

 「近代日本の食生活から考える米騒動」

       講 師: 高野 昭雄さん

     (大阪大谷大学教育学部准教授)

 

           司会進行   木下 松二(部落解放同盟京都市協議会)

             録   筒井 絋平(部落解放同盟京都市協議会)

           分科会責任者 西條 裕二(京都市職員部落問題研究会)

  

   ***************************************

  

「米騒動研究の現状と課題―京都市域の事例を中心に―」

 京都工芸繊維大学・佛教大学・立命館大学・神戸女学院大学講師 杉本 弘幸

 米騒動に関する一般的イメージは、「大正デモクラシー」に伴う民衆運動の発露や「民主主義」の原点というものである。社会の「底辺」である被差別部落民、女性などが「大衆デモクラシー」の影響で立ち上がったとされてきた。京都の米騒動はこれらの要素を全て含んだ典型的な事例と位置づけられた。しかし、このような歴史像は現在の研究成果とは大きな違いがある。

 現在の研究では、米騒動発生の背景については明治期から説明している。米騒動発生地域が米移出地帯に集中していることが、地主制の展開をはじめとする日本の近代化の特色と関連つけながら明らかにされている。

 また、明治期以来の米騒動への対応としての日本人商人や日本政府による朝鮮米・中国米の買い占めが、朝鮮・台湾、中国各地に米価高騰と抗日的米騒動をもたらした。つまり日本の米騒動は東アジアの抗日的運動と連動していることが指摘されている。米騒動そのものについても、一九一八年の夏に全国化した騒擾としてのみではなく、一九一七〜二〇年の米価高騰にともなって増加する対米価賃上げ争議も視野に入れて「広義の米騒動」として把握している。

つまり、対米価賃上げ争議との二重構造と、東アジアの民族運動との連動性という、米騒動の複合的性格を明らかにしている。国際的な外米移入構造の解明を行い、各地域に外米がどのようにはいったのか。日本によるアジアの米の収奪システムや植民地支配への依拠構造を析出している。

 そして、民衆像も大きく変わっている。外米を忌避する民衆像である。一般民衆は外米原産地であるアジアの食文化に対して無理解であった。しかし、公民権を持たない下層民衆が行政を動かそうとしていたことから、地方政治に関するデモクラシー要求も存在していた。つまりアジアに対する無理解とデモクラシー要求が同時に併存していた。さらに当時の民衆の思考や生活様式の探求に至っている。

 次に俸給生活者や商工業者などの中間層の生活難問題と米騒動との関係が指摘されている。中間層は、騒動の渦中で群衆が求めた廉売を否定し、常設の公立機関による生活保障と価格公定を望んでいた。米騒動を契機に現代的社会政策が実施される。

 事実レベルでもこれまで、米騒動がなかったとされる地域での食糧暴動などの発掘などの研究が続き、炭鉱や鉱山などの各地域の米騒動研究が行われている。そして、女性の立ち上がりは全国的には散発的であり、むしろ女性が立ち上がらなかった地域の構造の解明が必要とされている。このように、従来の理解とは異なる米騒動像が現在の最先端の研究では提示されている。

 こうしてみると、京都の米騒動は全国的にみるとかなり特殊な事例であった。そして、被差別部落民原因説によるフレームアップの格好な素材だった。部落民の検挙や、政府・マスコミの宣伝が行われた。京都においては被差別部落に流入した貧困層が米騒動の主体であった。郡部や一部地域では惣村一揆的な米騒動も起こった。今後も新たな視角による各地の実証研究の深化が必要となる。

 

 ***************************************

 

講演:「近代日本の食生活から考える米騒動」

講師:高野昭雄(大阪大谷大学教育学部准教授)

 

 本講演では、1918年の米騒動を、大戦景気中の象徴的な出来事として、さらには日本近代史の転換点として捉え直す作業を行った。脚気統計や残飯屋に関する史料など、従来の日本史研究では看過されてきた感のある史料をもとに、当時の日本における米を中心とした食文化を分析した。その結果、農村より都市、そして同じ都市でも東日本より西日本の都市(大阪市・京都市など)で、白米を多食する傾向があったことを示した。そして米騒動は、西日本の都市部で最も激しい暴動となっていったのである。

 脚気の原因は白米食によるビタミン不足であったが、隣接する東京都と埼玉県で、全死因に占める脚気の死亡割合には10倍以上もの差があった。当時の田舎では地主層でも麦飯や玄米を食べていたのに対し、都会では下層労働者でも白米を食べる食習慣があった。とりわけ男子肉体労働者は、多量の白米を食べており脚気患者が多かった。大阪市の男性では人口の1530%が脚気患者だった(脚気の死亡率は1〜2%程度)。

 脚気による死亡数は、第一次世界大戦の始まった1914年には、まだ9,689人であったが、第一次世界大戦の終わる、そして米騒動の起こる1918年には23,632人にもなっていた。第一次世界大戦期の日本では、大戦景気により、農業生産額を工業生産額が追い抜くなど、工業化が急激に進行し、都市への人口流入が進んだ。白米食は都市貧困層にまで普及し、米騒動期には、日本人が史上最も米を多く食べる時代を迎えていた。都市では最貧困層でさえ、主食物が残飯から白米へと変化していた。だからこそ都市貧困層は米価高騰に不満を持ち、米騒動の担い手になっていったのである。残飯ではなく、米を多量に食べるようになったがゆえの米騒動、生活水準が上がったからこその米騒動であった。なお本講演について詳しくは、高野昭雄「1918年米騒動に関する考察―脚気統計と残飯屋から学ぶ」(『千葉商大紀要』第52巻第1号、2014年9月)を参照されたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戻る