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 全体集会記念シンポジウム

 

 水平運動と朝鮮衡平運動

〜東アジアの交流と連帯そして今〜

 

   対談:朝治武(大阪人権博物館館長)×水野直樹(京都大学名誉教授)

       コーディネーター:駒井忠之(水平博物館館長)

  

駒井:みなさんおはようございます。コーディネーターを務める水平社博物館の駒井です。まず、今日の進め方について説明したいと思います。最初に私の方から水平社博物館で現在取り組んでいる活動について紹介したいと思います。その後、それぞれ、朝治さん、水野さんから報告をしていただいて、その後お二人に対談形式で報告していただきます。

まず、私から水平社と衡平社の交流について世界の記憶に登録されたことが司会のほうから紹介されましたが、世界の記憶はみなさん、ご存知でしょうか。京都で言えば、舞鶴でのシベリア抑留の引き上げ資料や、朝鮮通信使の関係資料、これは日本と韓国が共同申請ということで世界の記憶に登録されています。水平社博物館が所蔵している資料

@第3回全国水平社大会協議会提出議案(1924年3月)

A米田富手帳(1924年)

B米田富名刺(水平社同人 京都市上京区鷹野北町 全国水平社連盟本部)

C「衡平社趣意書」(大島水平社機関誌『火箭』第1号、全国統一社、1929年1月)

D 猪原久重名刺

以上5点が今回、20165月、アジア太平洋地域の世界の記憶ということで登録されました。@の第3回全国水平社大会協議会提出議案、ここではじめて、衡平運動と連携していこうということが協議されて、採択されている。ここから、交流が始まっていくわけです。2番目の米田富手帳、米田さんは水平社創立者ですが、この方は特に衡平社の運動に関心を示されて、朝鮮の衡平社というのはこういう組織だということがこの手帳に書かれています。

世界文化遺産や自然遺産は基本的に、「不動産=動かせないもの」が対象となっています。世界の記憶はそれらとはまた別で、ユネスコの3事業の一つとなりますが、移動可能なもの、どんなものでも記録として残っているものであれば大丈夫であり、世界中の人に影響を与えた記録と認められるものです。朝鮮通信使の場合は日本と韓国、2か国の共同申請で、国際登録となります。国際登録、地域登録、国内登録という3つの登録がありますが、相違点は、地理的範囲の大きさというだけで、そこに上下関係はありません。すべて、ユネスコが認証する世界的な価値のある遺産です。

 そういった意味で、今日は、水平社と衡平社の世界的意義を考えていきたいと思います。

 現在水平博物館の一つの活動として、人間の尊厳と平等を求めた水平社の思想、これは世界中の人が共有するべき思想、理念であり、世界へ発信していこうということで、その一つとして世界の遺産への登録がありました。もう一つの活動が国際人権博物館連盟への加盟。これは世界の人権関係の博物館や資料館がネットワークを組んでいる、その組織に、水平社博物館は日本で初めて加盟しています。2015年から大会に参加し、交流しながら発信しています。昨年は、カナダのウィニベグという町で開催され、「水平社と衡平社 国境を越えた被差別民衆連帯の記録」について発表し、アピールすることができました。

 

 では、次に朝治さんの方から、水平社創立の世界史的意義について、お話をいただきます。お願いします。

 

朝治:大阪人権博物館の館長をしている朝治武です。まず、大阪人権博物館は、今大変な苦境にさらされているんですが、2013年から大阪維新の会の府知事と市長がリバティ大阪の補助金を全面カットして2013年から自主運営をおこなっております。2015年には土地の返還を求め、更地にして返せという内容の提訴があり、裁判が3年目になりました。今年ぐらいには大阪府と何とか和解を実現して、リバティおおさかを存続させるということで進めていますので、今後ともご支援ご協力よろしくお願いします。

今日、私に与えられたテーマは、全国水平社創立の世界史的意義ということで、レジメを掲載していますが、これは、1時間半を想定して作ったものですが、30分で話すということで、何とかコンパクトにまとめて話したいと思います。

 ご存知のように、192233日全国水平社が京都で創立されました。岡崎公会堂にある、正式名称は京都市公会堂、今、京都市美術館の別館になっています。この建物は当時のものではなく、建て替えられたものということです。そこに、当時は3000人集まったという記録があり、当時の中外日報という新聞記事では700人とありますが、私は1000人説をとっています。従来の通史では3000人ですが、そうではないのではないかというのが今日的な評価です。とにかくしかし、画期的な意義を持つ。なぜかというと今日の部落解放運動の出発点、自主的な、部落民自身による解放運動の出発点が全国水平社だということです。その水平社の創立に与えた影響を、今日は国内的な問題よりも、国際的な、世界的な観点から見たらどうなるかというのがテーマです。

 まず、西洋的ヒューマニズムの影響が大きいということがあります。私の下手な解説よりも、当時の資料、文章を若干紹介しようと思います。「吾人の記憶す可き事は文明(封建的階級制)は労働者(吾々)を駆つて、吾等かくの如き貧弱にして且つ悲惨なる存在に到らしめたが為めに彼等は殆んど今日持続する のより更によき生活を考慮する事が出来ないと云ふ事である。(ウイリアム、モリス)」(『よき日の為めに―水平社創立趣意書―』、192112月) という、ウィリアム・モリスという人の文章を引いている。これはイギリスの建築家でもあり、社会運動家でもあった人ですが。また、ロマン・ロランやゴーリキー、当時、日本に入ってきた西洋的なヒューマニズム、人道主義の影響を受けているのが1つです。

 2つ目は、人種差別撤廃提案、これは、第1次世界大戦が終わって、ベルサイユで講和会議が開かれたときに、日本が人種差別の撤廃をせよという提案をするんですが、実はこれは、本当に人種差別を撤廃をするための提案というよりも、当時、アメリカやイギリスに対する攻撃の意味を持っていたのですが。「過ぐる国際連盟会議に於て人種差別撤廃の要求を世界的大舞台に提出した我が日本国は、此の提案が否決されたる時切歯扼腕して憤慨したことは、未だ吾人の新なる記憶として存する処である」(「水平社設立趣旨」『関西タイムス』第5号〈水平社創立大会号〉、1922215日、『労働運動』第3号、1922315日)

「御苦労にも(フランス)あたりまで利己主義的な人種平等案を飾る前に、明々白々たる朝鮮人は勿論、一千有余年来種族的反感に虐げられた特殊部落民の根本的解放の必要を知らねばならぬ」(比良光生「改善策と吾人の覚悟」『水平』第1号、1922年7月)

 要するに国は、外国では差別をなくせと言っているのに、日本国内では朝鮮人や部落民を差別して、これを撤廃しようとしてないことに批判をしている。

 次は、民族自決論という問題。第1次世界大戦が終わって、植民地支配を受けていた被抑圧民族が自主的な解放、民族独立を求める論理。これが、民族自決論、これはレーニンやウイルソンの提案で、3・1独立運動、今年は3・1独立運動100周年です。それから、中国の5・4運動、民族独立運動が盛んになって、それに影響を受けている。例えば民族自決団「激」に書いた平野小剣の文章では「今や世界の大勢は民族自決の暁鐘を乱打しつゝあり」「欧州戦乱の産物としての世界の一角から乱打された民族自決の暁鐘は吾々民族に強い  刺戟を与へた」(「全国水平社創立大会記」『水平』第1号、1922年7月)と、こういう文章に出てきます。当時は、部落民というのはまだ、正確な規定がされていない。例えば、階級であるとか、民族であるとか、身分であるというように。今日的には身分的な存在、身分そのものではなくて、身分的な存在と捉えられているんですが、当時は部落民も民族の一つだという捉え方があって、世界の民族が立ち上がったんだから、日本の少数民族である部落民も立ち上がるべきだという論理で、この文章は書かれている。

 それから、ロシア革命というものも、大きな影響を与えています。ご存知のようにロシア革命は、191710月に世界史上はじめて、社会主義政権、まあ今ロシアはソビエトが崩壊して今、ロシアになっていますが、世界ではじめて、これは搾取された労働者が資本家階級の権力を奪取して労働者・農民自身が権力を握るという、そのことで革命というのですが、その影響を受けている。「ロシヤ帝政の転覆前に於ける社会革命家及虚無主義者の暴威は実に猛烈を極めたものである」(小剣生「暴力から暴刃へ/△△民族の反抗心」『信友』第15年第8号、1921年7月) あまり、明確な文章は出てこないんですが、当時の社会運動家にとって社会主義というのはある種の前提で、何も言わなくても影響を受けている。我々、学生時代に、1970年代、マルクス・レーニン主義を学ぶことがある種学生にとって、前提であり、常識であったような感覚なわけですね。

それから、一等国意識。日本は、明治維新以来、不平等条約の下で欧米列強に圧迫されていたが、第1次世界大戦前、1904年の日露戦争以降、一等国意識というのが芽生え、第1次世界大戦が終わって、明確に出てきた。国際連盟の常任理事国にもなるわけです。今、安倍政権は大国意識をもって、国連の常任理事国をめざしていますが。「文明国と誇り世界の一等国だと意張つている現代の日本社会に於いて今尚ほ一部少数の人間を苦しめていると云ふのは実に非道極まる非文明極まる野蛮国ではないか」(セ一ロ「人間にかへれ」全国水平社本部『水平社リーフレット』、1922年4月)なんていう、批判をするんですね。一等国であれば、国内に差別を残すことは根本一等国と言えるのか、かつて、日本が経済大国。1980年代、経済大国と言いながら、人権後進国ではないかという論理を運動側が批判をしていた、それと同じ論理があるわけです。

水平社の国際連帯につながる論理とは何か。水平社という名称そのものが、イギリスのピューリタン革命における「Levelers(レベラーズ)」から着想を得て、水平というのは上下がなく誰もが平等な社会という言葉を、部落解放の論理をその言葉に込めた。今日は、おもしろくない名称がたくさんありますよね。部落解放同盟、確かに名前は明確だけど、ふくらみも何もない、当時は水平社とか解放社とか、元号をとって大正会とか明治会とか、報徳会など、言葉に膨らみをもたせるというのはどういうことか、最近よく考えます。私も、高校生の時から解放同盟でしたから、反省の意味もあります。

そこで水平社創立綱領の3項目目というのが意味があるんですね。1項目目は、「部落民は絶対の解放を期す」自主解放の項目。2項目目が「経済の自由と職業の自由を社会的に確立する」という項目。3つ目が「吾等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向かって突進す」。1項目目、2項目目は特殊部落民に絞っている。3項目の吾等というのは部落外を含んでるんですね。人間性の原理を蝕まれているのは部落民だけでなしに、差別をしているということは、差別をしている人、そのものの人間性を無視していることになるから、人間性の原理は誰もが尊重されるべき大事な原理だと言っている。これを考えた人は、阪本清一郎と言われてますが、ここに部落と部落外、もっと言えば全世界の連帯、国際連帯も含めた論理に発展する可能性のある綱領が提案された。ここから、人類愛とか、水平社は当時、人類愛という言葉をよく使っているんですよね。人類最高の完成というところから、人類愛という。人類愛もちょっと怖いところがある、2側面ありますが、とりあえず国際連帯につながる綱領が提案された。で、水平社宣言も、ちなみに(集会冊子の)この宣言は1922年の3月にまかれたものではないです。1972年にある解放同盟中央本部の幹部がつくったもので、こんな黒字に白文字のものは、私は今までどこの解放同盟の集会に行っても使っていいのかなと、これは京都の崇仁小学校の文献にありますので、それを見て、水平社宣言を読んでください。この中には誤植も2か所あります。水平社の阪本清一郎に関しては、二つの水平運動があると言うんですね。これはアイルランドの独立運動。今はアイルランド、イギリスともめていますが、北アイルランドは当時イギリスの植民地でしたから、その独立運動。で、インドのスワラジー運動、こういう世界の水平運動を知って、日本の水平運動と結びつくべきだと言うんですね。しかも、関西朝鮮人連盟というのが結成されるのですが、それに水平社の泉野利喜蔵や米田富も協力する。この宣言や綱領を見ても部落と朝鮮人がもともと同じ民族だった、だから連帯する。これはちょっと考えなければいけませんよね。いわゆる、日鮮同祖論というのがあって、もともと同じ源の民族なんだから、日本は朝鮮を侵略して、植民地支配しても当然なんだという論理につながる面もある。ですから、日鮮同祖論に関しては批判的に見ておく必要があるし、それに影響を受けた可能性がある水平社の論理。要するに同じ源だから連帯するというのは、今日的には深く考えて批判的に見ておく必要があるだろうと思う。で、第2回大会から第3回大会にかけて、様々な国際連帯の提案がされます。例えば、「労農ロシアノ無条件承認ノ件」ですね。また「水平運動ノ国際化ニ関スル件」とか「水平社ト朝鮮人ノ提携ニ関スル件」、こういうのが第2回大会にも提案されるのです。「労農露西亜ニ於ケル猶太人状態視察調査ノ件」とかですね、これらは全て、海外の被抑圧者とつながる、海外の被抑圧者の現実を知ろうという、ただ、初期の水平社は、南梅吉、これは千本の水平社、そういう保守的なグループもあり、共産主義に近いグループもあり、革新的なものに関しては、否決されています。第3回では、「印度ノガンヂー氏ニ出獄祝ノ電報ヲ発スル件」、「労農ロシヤ即時承認ノ件」「朝鮮ノ衡平運動ト連絡ヲ図ルノ件」、これについては、後ほど、水野さんが詳しく喋られますので、私からは省きます。「内地ニ於ケル鶏林同胞ノ差別撤廃運動ヲ声援スルノ件」、この鶏林同胞というのは、朝鮮人のことです。「鮮人取扱ヒニ関シテ政府ニ警告スルノ件」、これは、鮮人と言ったのか、朝鮮人と言ったのか、関係資料ですからわかりませんが、差別意識から言った可能性もあります。

で、こういう風な論理で国際連帯に進んでいくんですが、排日移民法反対運動というのを説明したいと思います。これは19244月にアメリカの上院と下院で可決した法律で、「日本の移民をこれ以上増やさないようにしていこう」という意図で、アメリカが大統領だけでなく議会も承認することになった。今日も移民に対して非常に敏感になっているが、当時も一緒で、アメリカの労働者の地位、処遇について国内的に混乱がおこっていた。一度目は喜劇だが、二度目は悲劇というが、やはり歴史に学ぶということは重要です。水平社は全国水平社臨時大会を開いて、アメリカに抗議をし、水平運動の国際化ということに基づいて、衡平社やインドのスワラジー運動の本部、上海の大アジア協会へ、連帯して闘おうと呼びかけた。ところが、この水平社の運動については批判がある。当時共産主義の、全国水平社青年同盟から「独占資本に協力するような水平運動はおかしい」むしろ、水平運動がやっているのは国粋主義で「日本軍閥とブルジョアジーを支持しようとする運動」だから、こういう運動はやめるべきだと主張した。私も、排外主義の反対運動は二面性を持つとおもいます。一方ではアメリカを告発するという側面があるが、本当は、日本の労働者の権利を守るべきなのに、ナショナリズムに基づく日本の国権を守ろうという動きに吸収されていくということも十分にある。

当時の水平社というのはこのような、国内的な要因だけではなく、国際的な影響を受けて創立され、しかも、国際的な論理をもって、国際連帯にも進んでいった。それはそれとして成果もありながら、問題もあったということです。

まとめると、「全国水平社創立への世界的影響と初期水平運動における国際連帯の論理や模索は、部落解放を中心課題に据えながら、資本主義国内における階級間の対抗だけでなく、帝国主義国家間の対抗や社会主義体制と資本主義体制との対抗、そして帝国主義諸国と民族解放勢力との対抗など、四つの基本的な対抗に深く関係した、差別と抑圧に関する諸問題を自らの課題として明確化させたことに最も大きい特徴があり、この意味においてこそ、全国水平社創立の世界史的意義を見出すことが可能であろう」と、しました。とりあえず、ここでいったん終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 駒井:ありがとうございました。次に、水野さんにお願いしますが、水野さんは朝鮮衡平運動史研究会の代表もされています。

 

水野:私は、日本の植民地支配の時期の朝鮮の政治や社会について研究をしておりまして、特に衡平運動の専門というわけではないんですが、何年か前に、朝治さんから言われまして、ちょっと衡平運動の研究をするから一緒にやろうと誘われて、そのあと私なりにいろいろ調べています。現在は、朝鮮衡平運動史研究会、日韓の研究者合同で行っているものなんですが、それの共同代表を務めております。衡平運動についてはあまりご存じない方もいると思いますので、そもそも、朝鮮の被差別民白丁とされる人はどういう存在であるのか、また、朝鮮で衡平運動がどのように展開されたのか、それが日本の水平社とどういう関係があったのかについて、簡単にお話したいと思います。

 水平運動、衡平運動、この両者が交流を持ったということは歴史的な事実でありまして、それは人権の確立を求めた運動、そして被差別民の解放運動として評価する必要があると思います。ただ、もう少し広く言うと、日本が朝鮮半島を植民地として支配していた時期に日朝間で民衆レベルでの交流や連帯の動きというものが、この水平社と衡平社のように、組織的に行われたという例は他にはないわけです。そういう面で評価する必要があると思います。また、交流が行われたのは1920年代のことであります。日本では大正デモクラシーの時期です。また、朝鮮では1919年におこった31独立運動の後であった。そういう時期に日朝間でこういう、交流や連帯の動きが見られた。ということは、現在の地点から振り返ってみても、やはり、評価すべきことではないか。その交流を媒介したのは、日本に住んでいる朝鮮人であったということも、指摘すべきであろうと思っています。

 この衡平運動に関しては、かなり前から、この30年くらい、日本でも関心がもたれ、韓国でもある程度研究が進んできました。ところが、これまでの研究は主に新聞記事あるいは日本で出た雑誌に掲載された文章などを基にして研究が進められてきたんですが、この10年くらいの間に、新しい資料がたくさん出てきています。これは、衡平運動の様々な活動を警察が記録していました。そういうものが、発掘されました。それに基づいて3年前に朝鮮衡平運動資料集というものを編集して出しました。これを編集したときに、新しい資料を加え、そして、写真ですね。当時の朝鮮の被差別民の部落の様子を写した写真や、仕事の様子を写した写真が見つかりまして、収録しています。

 朝鮮の白丁と呼ばれる人たちの仕事は、いろいろありますが、屠畜関係もありましたが、柳こおりの細工も白丁の仕事とされていました。けっこう、具体的な様子がわかるようになってきました。現在行っていますのは、資料集の続きを出そうということで編集をしています。これは、二つあり、これまでも見られた、知られていた資料。それから、私が1年前にソウルに行きまして、韓国の政府の文書館で見つけた資料があります。それが衡平青年前衛同盟事件というものの、検察や警察の尋問調書です。これが、非常に詳細な記録であり、内容的にも興味深いものがあります。衡平社の活動家が、日本にやってきます。京都にもやって来ます。水平社の人たちとそこで交流をしているということについても、その尋問調書に出てきています。そういう新しい資料が見つかりましたので、それを現在続巻として編集しているんですが、資料を見ますと、交流の具体的な様子がわかると同時に、一方で、交流とか連帯の動きの問題点というものも見えてくる。後程それについても触れたいと思います。

 そもそも、朝鮮の白丁と呼ばれる人たちは、どういう人たちなのか。これも歴史的に必ずしも明らかにされていないんですが、少しお話をしておきたいと思います。

 朝鮮王朝時代、これは14世紀の末に始まったわけですが、それ以前の高麗時代に白丁と呼ばれる人たちは、存在しておりました。ただその時代には、職役、これは、国家から課される労働ですね、そういうものに就いていない一般民衆を指した言葉でありましたので、差別される人たちではなかったんですね。白丁という言葉は、被差別民を表す言葉ではなかった。しかし、高麗時代から朝鮮時代に移りまして、農業に従事していない、あちこちを放浪するような人たち、そういう集団を朝鮮王朝は定着させて農業に従事させようとします。その時にそれらの人たちを新白丁と名付けて戸籍に登録したんですね。放浪しているような集団というのは、一般に社会的に差別される人たちであったわけですが、そういう人たちに新白丁という言葉がつけられることで、その白丁という言葉自体が差別語になったのではないかと考えられます。朝鮮時代の賤民にはいろんな種類があったわけですが、その中でも最下層に位置付けられておりました。非常に厳しい身分的差別を受けております。

 19世紀の終わりに、朝鮮でも身分制の解体といいますか、廃止の動きがありまして、これが東学農民軍、日本では甲午農民戦争と言われますが、その農民戦争の中では、白丁に対する差別の撤廃を要求する声があがっていました。そういうことを受けて、朝鮮政府の側が、身分制の廃止を行ったのが1894年のことです。ただ、法令で身分制は廃止されたわけですが、実態として差別は残ったわけです。

当時19世紀の終わりから20世紀の前半につくられた戸籍が残っているのですが、一般の民衆の戸籍とは別に、屠畜をする人たちの戸籍というものがつくられていたということが、現在確認されています。屠畜をする人と書かれてはいるんですが、必ずしも屠畜だけではなく、私の考えでは被差別民、白丁とされる人たちを一般の民衆の戸籍とは別につくっていたのではないかと考えています。ですから、そういう面からも社会的に制度的にも差別が残ります。そのあと、日本の植民地時代に入るとどうなるかというと、戸籍の中に実は、職業が書かれたんですね、初期の段階に。そこに、屠畜であるとか、ちょっとお見せすると、本籍地欄の横に、農とあり、また赤い文字でトと書いてある。この人は、農業に従事しているんだけど、屠畜をしているわけではなくて、白丁出身であるということを表しているということを解釈することができるわけです。こういう風な戸籍が日本の植民地時代の初期、1920年代の前半くらいまで続いていたわけですね。衡平社が創立された後、これを削除せよという要求を出しまして、日本の当局も、職業、戸籍に職業を書くということがそもそも意味がなくなっていたんですね。戸籍に登録されている人が、みんな同じ仕事をしているわけではないんですよね。仕事もどんどん変わっていくという時代になりますから、戸籍に職業を書く必要がなくなっていましたので、衡平社の要求を受けて、日本の当局も職業の記載をやめることになります。でも、この問題は日本でも同じようなことがありましたよね。壬申戸籍であります。壬申戸籍の場合もそこに記載されていることから、職業が読み取れる。それによって、差別されるということがあったわけですね。そういうふうな問題が日本で顕在化するのも、だいたい同じ時期だったと思います。1920年代のことだったと思いますが、このあたり、日本と朝鮮でどういう関連性があるのかということは、まだこれからの研究課題であります。

 実際の白丁出身者が、どういう仕事をしていたか。そもそも、白丁と呼ばれる人たちの人口はどれくらいか、資料には37千人くらいがあげられています。これは、警察が調べたものなんですが、衡平社自身が40万人と言っておりました。ですから、衡平社が言っていることと、警察が調べたことは10倍以上の違いがあるので、このあたりも、どういうふうに考えたらいいのか、これも、今後の研究課題ですが、私は多分10万人から20万人くらいじゃないかなと思うんですが、確たる証拠はありません。仕事ですが、上の欄に職業が書いてあります。屠夫、獣肉販売、また、柳器製造、そのあたりが白丁の仕事とされているんですが、実際には、農業をする人も多いんですね。植民地時代に職業の変化もかなりあったのではないかと考えられます。地域はどうか、朝鮮半島南部に多いことがわかります。朝鮮北部にもいたことはいたのですが、それほど多くない。こういう白丁出身者に対して、日本の植民地権力がどのようなことをしたのか、屠畜場あるいは、牛皮の乾燥場を仕事として持っていたわけですが、日本はそれを管理統制するということをしていきます。特に皮の製品は大事だったんですね。軍隊が使うものですから、皮の統制を行います。日本の資本が朝鮮にも進出しておりました。そもそも、皮革製品の生産量は、日本国内と朝鮮でほとんど同じくらいの規模なんですね。ですから、それだけ日本の軍にとっては朝鮮の皮革が重要だったんです。そこで朝鮮皮革株式会社という会社をつくりまして、皮製品を支配のもとに置こうとします。この皮革株式会社の支店は、大阪の西浜にありました。そういう状況で、白丁と呼ばれる人たちの仕事も日本の統制下におかれるようになっていくということです。

そういう中に1923年に朝鮮衡平社が創立されます。これも朝鮮半島の南、釜山の近くのチンジュという町で創立されます。後に本部がソウルに移っています。その趣旨は、先ほど朝治さんが話されました水平社の影響がどれだけあったのか、全くなかったとは言い切れませんが、比較して、思想史的にどういう風に位置付けられるのかということも、考える必要があるだろうと思います。衡平社の目的は、階級打破、先ほど言いましたような白丁、屠畜する人間、こういう風な侮辱的な称号を廃止せよ。それから、自分たちの力を向上するために教育を奨励する、お互い助け合うという目的を掲げていました。日本の水平社と大きく違う点は、衡平社に入る資格なんですね。日本の水平社の場合は被差別民に限られていましたが、衡平社は朝鮮人であれば誰でも加入できる。白丁出身者だけではなかったんですね。最初に衡平社が創立された時も、非白丁という人がけっこう重要な役割を果たします。後に、日本の水平社の経験に学んだのかもしれませんが、衡平運動の中心は白丁出身者だというような主張も出てきます。活動として、戸籍の職業記載の問題であるとか、役人や、警察官による差別事件に対して抗議する。また、一般の民衆から受ける差別事件に対する抗議もします。ただ、ここで問題、水平社の運動と比較して考えると、糾弾活動というものは朝鮮ではほとんどありませんでした。差別に対して抗議はしますが、糾弾をするというところまではいかない。それは、白丁という人たちの人口が少なかったということがあるでしょうが、大きくは、植民地支配という状況の中でそこまで先鋭な活動はできなかったのではないかと思います。

 運動の限界として指摘できるのは、衡平社内部に対立が生じます。創立大会以来か、チンジュを中心としたグループと、本部が写されたソウルを中心としたグループで、対立が生じます。また1920年代後半になりますと、衡平社の活動家の中に社会主義思想を受け入れた人たちが出てきまして、衡平社というのは階級解放ですね、社会主義者にとって最大の目標は、階級の解放のためには、衡平社も解消して労働運動や農民運動に参加すべきだという意見が出てくる。結局衡平社の解消ということはありませんでしたが、内部では対立がありました。一番大きな問題は、植民地権力による弾圧というものも厳しかったことです。二つほど事件をあげていますが、どちらも、植民地からの独立をはかったということで、治安維持法違反で検挙されるという事件です。しかし、これらは、結局衡平社の活動家に関しては、無罪判決が出ておりますので、どうも、植民地権力の側にとって衡平社の運動というものと、朝鮮の独立運動を結びつけることが、なかなか証拠としてあげられなかったのではないかと思います。しかし、この「前衛同盟事件」に関しては、かなり膨大な資料が残っておりまして、衡平社の具体的な様相がわかります。

 水平運動との交流はどうだったかと言うと、関係資料が集会冊子に載せています。水平社の側も1924年くらいから、衡平社との連携をはかろうという動きが出ています。お互いの大会にメッセージを送り合ったり、人を派遣したりということが続いていきます。ただ、連携をはかろうと言ってもいろんな問題が生じまして、水平社の中に警察のスパイが入り込む。その人物が朝鮮の衡平社にも接触して、情報を入手して、警察に伝えたという事件がおこりまして、衡平社の側は水平社からの接触に対して、警戒心を抱くようになります。

 そういう問題以上に、私が問題点として重視したいのは、水平社の側から衡平社へ、提携と呼びかけが何度も行われるんですね。でも、衡平社の側は、一緒にやりましょうとは言うんですが、具体的に連携して何か活動するということに対しては躊躇する意識が、強くあったようです。それは何故なのかというと、日本の水平社はかなり大きな運動だけれども、朝鮮の衡平運動は人口も少ないということもあって、力量が小さい。両社が一緒にやったら、衡平社の方が日本の水平運動に飲み込まれるから、躊躇しているという記述もありますが、私は、どうもそれだけではないと思います。水平運動においては、1920年代の中頃から政治闘争が重視されていく。日本で普通選挙法が成立する中で、政治闘争が重視されますが、朝鮮の状況は全然違うんです。朝鮮人には参政権は与えられていません。それから、政治的な活動というのが、植民地支配の下ではなかなか展開できない。ですから、そう簡単に水平社と提携してやっていこうという風には踏み切れないという問題があったと思います。そういうことを表すものとして、衡平社の幹部で李東煥(イ・ドンファン)がいますが、1927年に日本にやってきまして、大阪、香川、京都に来て、京都に滞在して東七条の水平社を訪れた時の写真が残っています。李東の尋問調書、内地水平社の視察状況を尋問で語っています。菱野貞次に案内され、田中の部落に行ったと。それを読みますと、日本の活動家は政治闘争を強調して、朝鮮でもやれということを言っているんですが、先ほども言ったように、日本と朝鮮の状況の違いからやはり簡単にはいかない。日本の水平社の側には、植民地支配という問題に対する認識が十分ではなかったわけです。

資料6「衡平社第9回大会に送った全国水平社の祝文」ですが、「衡平社が従来の民族主義的闘争より更に展開されたる階級的闘争に押し進まれたる飛躍的発展を何よりも感謝する」と書かれています。どういうことかと言うと、衡平運動は民族主義的闘争、それではだめ、階級的闘争に進まなければならないんだということが、このメッセージに込められているんですね。やはり植民地支配という問題を十分意識していなかった。また、愛国主義、一等国意識が水平運動の側にもあったのではないかと思います。衡平社第六周年紀年式、ここでの徳永参二のあいさつに、「互ニ握手シテ共ニ日本帝国ノ国勢ヲ四海ニ発揮スル様努力サレンコトヲ御願ヒシマス」と言っている。日本帝国の勢力を世界に示さないといけないということを、朝鮮に行って述べていて、これが、この大会の中でも批判されて、後に、徳永参二はこれを取り消す、謝罪しますと言っているんですが、こういう言葉が簡単に出てくるということがやはり大きな問題だと思います。

 解放後についても、ちょっと触れないといけないんですが、現在、韓国でいろんな研究者とお話しても、現在は白丁出身者というものは、社会的存在としては見えなくなった。その子孫はいるかもしれないが、見えなくなっている。それは何故なのかという問題はあるんですが、でも、意識の面で差別がなくなったかどうか、この辺は、疑問として残る点です。

どうもありがとうございました。

 

駒井:コンパクトにお話いただきました。何点か、お二人に伺っていきたいと思います。一つは、水平社創立から、衡平社創立へ与えた影響についてですが、全国水平社の創立宣言、これは被差別マイノリティが発信した、世界で初めての人権宣言と言われています。国内の様々なマイノリティ、少数者にも影響を与えたと言われますが、そのあたりについて、朝治さんどうでしょうか。

 

朝治:衡平社を研究している人、衡平社の当時の活動家は水平社の影響の度合いを低く見るということが一般的なようです。ただ、当時、衡平社を創立したメンバーが明治大学に留学していて日本の状況を知りえたということが、前提として踏まえておくべき、また、当時も今も、新聞の影響は強いですから、日本の水平社の創立は植民地朝鮮に伝わっていたことも十分可能性がある。1年間のタイムラグがあるわけですね。223月と、24425日という、あくまでも運動は自主的なもので、自主的に立ち上がって衡平社は創立されたんだということは、我々は尊重すべきであり、その前提に立ったうえで、水平社がどういう影響を与えたかということは大事かなと思います。

 

水野:今、朝治さんが言われたチャン・ジピュという人物ですが、明治大学に留学していたのは1910年代の前半ですので水平社ができたときではないんですね。私がどう考えるかというのは難しいところですが、水平社の動きが衡平社に、影響を全く与えなかったと、私は考えておりません。やはり一つの刺激になった。それは当時の朝鮮の新聞にも水平社ができたということは報道されております。それから、思想的に言いますと、日本の影響をどうとらえるか、世界的な思想状況が、朝鮮に伝わるルートというのが、当時にあっては、日本を通じてだった。そういう意味では、水平社ができる背景になった、朝治さんが指摘されたことは、朝鮮の当時の知識人は日本を通じて受け入れていた。そういう面がありますので、そういう中で、水平運動につながるような思想も当然あったわけです。水平社の創立宣言自体もすぐにではないが、朝鮮語に翻訳されていました。また実物は確認されていないんですが、当時の広告に水平社宣言朝鮮語訳というのが出ていますので、朝鮮でも読まれていたと思います。そういう形で影響はあったと思いますが、一方で、衡平社というものが1923年に誕生するその前提となる動きも重視しなければいけないと思っています。どういうことかというと、これは、ほとんど研究が進んでないんですが、1910年の韓国併合前後に、白丁出身者が何か自分たちの地位を向上させようという動きをとった、ということが確認できています。それがすぐに衡平社につながるというわけではないんですが、白丁の出身者の自主的な運動といったものがやはりあって、それが前提となって、衡平社の創立につながったという面も、やはり重視すべきだろうと思っています。

 

駒井:水平社と衡平社の関係性を模索していたのか。先ほど、水野さんの報告から、徳永参二の発言も紹介されましたが、朝鮮人を日本人と同一視するようなところが見られますが、朝治さんが指摘された、水平社の人種差別撤廃論において、水平社が模索していた国際連帯というのはどういったものだったのか。もう少し説明してもらえたら。

 

朝治:先ほどの、人種差別撤廃提案というのをしていながら、日本の中に朝鮮人差別も部落差別もあるだろうというのが、近藤ヒカルのペンネーム、近藤ヒカルは京都に住んでいて、当時共産主義の立場にたっていて、その立場では、国家を批判するのがまず先にあって、そのために、運動は支援をするが、革命にとって利用するという側面もあったので、私はここは深く見るべきだと思います。確かに、水平社は2回大会、3回大会で議案をたくさん提案して、水平運動の国際化を言っているが、議案の中身を読むと、通信、交流をするということぐらいで、必ずしも連帯の中身が明確ではなかった。共通の目標をもって、共通の動きをして誰かに対して闘争を組むという意味での国際連帯ではなく、連携をとって、通信交換をするという内容だった。海外の事例を学ぶという意味では、評価すべきだと思います。

 

駒井:世界史的に見ても、被差別民衆の国境を越えた交流・連帯というのは非常にめずらしいという話もありましたので、その中から、こうした連帯交流から、今現在学ぶべきポイントは何なのか。今日、共有すべき理念はどんなことかについてお願いします。

 

水野:先ほども出た問題なんですが、メッセージを送り合うというだけでなく、具体的に連携・連帯をしたりということが可能だったのかどうか、かなり私は、難しい状況だったと思います。ただ先ほども言いましたが、日本と朝鮮で似たような状況があったわけですね。例えば、戸籍の問題です。日本でも、壬申戸籍というのが問題になったのは30年代に入ってから、戦後大きく問題になったのは1968年ですが、戦前も問題になっているんですね。ですから、そういう意味での情報の交換ということはできたんじゃないかと思うんですね。それから、具体的に差別事件があったときに、お互い支援しあうということも、可能だったか。やはり、民族を超えて、そういう活動について支援をしあうという動きが、もう少しあってもよかったかな、と思っています。そういうことについて、現在、どうとらえるかということですが、最初にも言いましたが、日本が植民地として支配していた時期に、民衆レベルで、あるいはこういう組織同士で、交流・連帯の動きがあったのはほとんど、これが唯一なんですね。それが可能になったのは、朝鮮の3・1独立運動、日本では、大正デモクラシーの状況であったのではないかと思います。今年は3・1独立運動100年、そこから、我々が何を学ぶのかということを考える場合に、特に3・1運動が、切り開いた可能性、実現は難しかったかもしれないが、可能性として日本と朝鮮との民衆レベルでの交流、相互理解を私たち自身の問題として考えていく必要がある。現在、いろんなことが、日本と韓国、あるいは、日本と北朝鮮との間に様々言われていますが、やはり、民衆レベルでの交流と相互理解ということを私たちは大事にしていかないといけない。国家レベルでものごとを考えるのではないのだというようなことが大事だろうと思っています。

 

朝治:私も、兵庫篠山の部落に育ちましたが、確かに部落では厳しい状況にあると左翼的な意識が強い。そうであるがゆえに、本当は、いろんな人と連帯してやるべきなんですが、部落と、部落に隣接して住んでいる朝鮮人の人たちと手を組むということが、現実的に大切なまちづくりの課題であり、必要なんだと思います。もう少し視野を広げて日本、我々は、植民地とした側の国民というか、民衆であり、国家の責任を我々が負う必要はないけれでも、民衆として果たすべき役割は、私はあるんじゃないかと思います。やはり、歴史に学んで、侵略や植民地支配をきちっと自省する。それを踏まえて、日韓だとか日朝だとか、何が共通の課題なのかということを踏まえる必要がある。現在、部落解放運動は、国際運動や国際連帯を重視し、国連の人権スタンダードを日本に適用しようとしている、そのときに、欧米だけではなく、アジアを見ていく必要があるし、特に日本が植民地としてきた朝鮮半島を視野に入れて、部落解放運動を進めていくべきだと考えています。

 

駒井:本来私がまとめるべきところを、お二人がまとめていただいたわけですが、最後に、両社ともに、解放や平等を願った活動だったことを確認し、20223月には、水平社創立100周年を迎えることになりますので、本当に水平社がめざした「よき日」が実現できるように、今後もこうした交流を学んでいくことを確認して、シンポジウムを終えていきたいと思います。

 

 

  

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